役に立つ、という事

何か新しい「道具」が出てきたことで、仕事が早くなったり、便利になったり。生活が楽になったり、便利になったり。

 

たとえば、T型フォードの発明による車の大量生産あたりから始まり、電話の発明、電卓の発明、パソコンの発明等々、仕事のやり方はこの100年で大きく変革してきたわけで。その中で、電話は会社に一つから部署に一つ、個人に一つ、そして携帯電話で個人に複数に。パソコンだって、会社に一台から部署にパソコンが一台、個人に一台から個人に複数台に。

 

そうして、仕事や生活の「役に立つ」道具というのは、アナログなものからデジタルなものまで、様々に出てきた。道具がうまれたことで無くなった仕事もあったはずで、それに対して文句を言う人もいたと思うけれど(氷屋さんと電気冷蔵庫の例など)、社会全体としてはそれで「発展」してきた。

 

たとえばそんな「道具」ができてきても、そこに「知能」があるなどとは当然ながら誰も思わなかった。
ただ、そんな「道具」自身もどんどん進化しだしていて、便利に動き始める、環境や対象を認識し始めることによって、どんどん便利になりだして。そしてそれを「人工知能」とか「AI」とか呼び出し始めることで、一部の業態の人々だけでなく、社会人全体が、「俺の仕事がなくなるかも」と心配し始めているのが現状。

 

ただ、「役に立つ」という事と「知能がある」という事は別物だ。さらに言えば、「知能」とは何かすら、いまだ明確になっていない。

確かに、今開発されている「人工知能と呼ばれるもの」は、複雑な情報でも、そこそこに分別し扱い分けることが可能になってきている。が、それをもって「知能」なのか?便利にはなるだろう。だが、それは過去から連綿と起きてきたこと。

 

そんな中、人々は、便利な道具の出現によって無くなる仕事からは手を引いて、新しい仕事に切り替えてきた。たまたま今回は「そんな人々が、今まで以上に大量に起きる…かもしれない」という恐怖になっているという事。

いや、変わらざるを得ないし、事実変わってきているし。

すでに、ここ10年で、30年、40年前には存在していなかった新たな職業はいくらでもある。だから、変わってきているという事。

 

だから恐れず、役に立つ道具は「それを使う側」になりましょう。そのうえで、それ以外にまだできていない必要なことはまだまだ存在するはず。逆に言えば、それらが「本当に存在しない世界」になるというなら、あとは、みなに社会資本や賃金をいかに平等に分配するか、という事につながるはずなのだから。