チャレンジしてもいいころ

私有財産をいくばくか使って資本金とし、企業する人々がいる。とはいえ最初から大きな資本を持っているような恵まれた人は少ないから、必死でかき集めて100万とか300万円あたりから始める人も。

 

そうして始めた最初のところから、いきなり「できるかどうかはわからないけれど、でもチャレンジ!」とか言っているようでは、まず間違いなく倒産へまっしぐら。であるからこそ、最初は堅実に出来るところ、でも誰もまだやっていなさそうなところから、アイデアを駆使してビジネスを作り上げていくほかはない。

 

それらが成功し、少し軌道に乗ってきて、ビジネスを拡大する時期に入ってくると、少しはチャレンジしていかなくては企業は大きく羽ばたかない。とはいえまったく当てがないもの、よりどころがない方向性には進展できないので、既存の事業と紐づける形で育てていく。

 

それも軌道に乗り始め、いよいよもって大企業の仲間入りを果たし始めると、ここでは「大きなチャレンジが必要」に。財務的にもある程度の盤石な基盤を背景に、いくつかの「チャレンジ」を手掛け、そのうちの一つだけでも成功すれば、それによってビジネスが飛躍的に広がる次へとつながることに。逆に言えば、全てを成功させよう…などと思った瞬間に、小粒になって、羽ばたけない。いくつか失敗してもいい。無駄になることは認めた上で、一つだけでも大きく羽ばたけばペイする。それがチャレンジ。

 

日本においては、このどこかで「一度躓く」と、二度と立ち直れないような個人に負担を強いるような社会的な仕組みが出来上がってきていた。だがそうした環境が背景にある事をだれもが知り始めることで、「誰もがチャレンジをしなくなった」事による、社会的な飛躍、国の産業としての飛躍が実現できなくなりつつあるのではないか?

 

日本の銀行を代表とする、企業へ金を貸そうとする投資判断の基準として昔よく聞いたのは、「失敗していない事」だった。だがその当時海外、それもアメリカの投資家の投資判断の基準は、「以前の失敗を糧にしているか」という、失敗していることが一つの基準だった。(2019年の現在は、日本も少しはましになっているとよいのだが)

 

石橋を叩いて…も渡らないような日本の企業家では、企業は大きくできない。イヤ、そもそも石橋を渡らないなら、起業家ですらないだろう。産業は発展しないし育たない。であるからこそ、例えば野球のように、2度の失敗(ツーストライク)までは許容したりするような、チャレンジするものを応援する制度、姿勢を示すような形に社会が変わらなくてはならないのではないか?そうした政治家が出てもいいのではないか?でも、そうした政治家を選ぶ庶民が、「それはそれ、でも私は私…」と言っていては、いつまで日本は持つのだろうか?