都会の事情

通勤時間帯以外はまだしも、日本の、特に関東圏における通勤列車の混雑ぶりは尋常ではない状況。混雑率が100%をこえるなどは当たり前で、下手をすると200%に達するような、超ぎゅうぎゅう詰めの満員列車で「痛勤」しているビジネスマン、ビジネスウーマンは山ほどいるわけだ。そこで費やされるエネルギーは尋常ではなく、大半は通勤するだけで、1日の何十%かのエネルギーを使う事にもなっているのではないだろうか。であるがゆえに、座れるか座れないかはある意味死活問題。始発駅や、乗り換えが多い駅において、空いた席に座れるかどうかバトルが発生するのは、ある意味必然かもね。

 

さらに、なぜそんなに皆が同じ時間帯に混んでいる電車に乗るのかといえば、同じような時間に始業する会社や組織、そこで働く人々がまた同じような地域に住んでいるため、多少の余裕は見ていたとしても、ほぼ同じ時間に自宅を出ざるを得ない状況にあるからという事。時差通勤、時差出勤が叫ばれて久しいけれど、各社、各個人の努力にゆだねるだけで、まぁ根本的な対策も立てられていないから誰も変わらないし、社会も変化しない典型例だ。(これ、たぶん2020年の東京オリンピックの際には、たぶん、さらなる地獄絵図になりそうなのは、想像に難くないのだが…)

 

結局、通勤でどのくらいのエネルギーを「奪われずに行けるのか」が自分のエネルギーレベルを維持する、ある意味最後に残された領域でもあり、それ以外の時間は、全て会社に、組織に搾り取られ、搾取されている状況。そのくらい人々の余裕を、企業、組織に奪われているのではないか?

 

余裕がなければ、自分が生き延びるので精一杯。であれば、他人に目を向けることすら厳しくなる。余裕があれば、誰かに目を向けたり、手を差し伸べたりすることができる。誰かに優しい世界とは、余裕がある人が多い世界だから、ではないだろうか。

そんな余裕が通常の生活を送っている人においてであってさえなければ、赤ん坊にも、子供にも、お年寄りにも、障がい者にも、手助けができない状況。席も譲らなければ、電車が遅れたり、自分が遅れるようなことには関われなくなる。

 

成長するためには、余裕分で次の成長の準備をする必要がある。それは人口増加だったり、高付加価値だったり、儲けが大きい、働かなくても何とか生活できる時間で、次の算段、下準備に入る。でももう、人口は基本的に減少、経済も実感として回復していない、貯金もたまらない。カツカツで回っている社会で、個々人だけが余裕を持つことは無理だろう。

うらがえせば、今余裕がある人々がそれ以外の人々に施すべき事が不十分なのかもしれない。

ノブレスオブリージュという考え方がほとんど浸透していないこの国においては。