必要のあることを考えようよ

効率化の一つのやり方として、マニュアル化しよう、定型化しよう…という考え方が出てくる。もちろん、これは大変に効果をもたらすことであり、正しく実施すれば、非常に効果が上がる施策だ。

 

マニュアル化されていれば、手順化されていれば、「えーと、次に何をすればいいの?」なんて手続きはどんどんと進められる様になる。誰でも逡巡することなく、作業を進めればいいだけの話。であるがゆえに、考えずとも進められる。間違う可能性を著しく小さくできる。「マニュアル化」の施策がうまく回りだすと、誰もがそうした仕事を簡単にこなせるようになる。仕事の一部がシステム化されるわけだ。

 

これをもってして、マニュアル化とか、自分たちの作業手順を「明確にしたがらない者」が出てくる。それはなぜか?そうした「ノウハウ」こそが「彼ら」の存在意義であり、アイデンティティであったのではないだろうか?彼らから言わせると、それを晒せだと?俺がここまで苦労して仕上げてきたこれを?となる。

 

全く間違いだ…というつもりはない。だがおおむね間違っていると思う。それは、そうしてマニュアル化できるための試行錯誤自体は、たしかに「その当人」の功績だろう。そこはきちんとたたえよう。評価しよう。でも、そうして明かになった手順は、それほどに価値があるものだろうか?ずっと称えられるほどの価値ではないはずだ。実はその程度の工夫なら、誰かが少し考えれば、誰でも思いつくことではなかったのか?それを後生大事に抱えていて「あなたの価値」は未来永劫安泰だろうか?たぶん、ちょっと頭のいい人が入って、それを引き継いだ瞬間に、簡単なことがばれてしまうのではないだろうか?

であるからこそ、そうした簡単なノウハウは文書化、マニュアル化しよう。

 

だがここに次の課題が出てくる。そうして誰でもできるようになったことで、確かに効率化できた。なら、効率化できた分だけ、「人を減らそう」…に力を入れる資本家がいる。言語道断!間違いも甚だしい!そうして効率化できて、進化した組織において、少し余裕ができた時間で、「次の飯のタネ」を考えたり、「次のアイデア」を考えずして、どうするのか?それこそが必要とされているのではないだろうか?

そう、マニュアル化して効率化した事で「必要なことを考える時間を作り出すこと」。それによって「次の技術」「次のサービス」「次の商品」等々を考えることが求められているはず。

だから、効率化出来たら、そうして作り出された時間によって、これから必要なことを考えていこう。これを間違えると、また、地獄を見ることになるんじゃない?