安心の罠、安全の罠

世の中、個人的に不思議に感じる事がある一つとして、「安心」を重視するあまり「安全」を軽視する人が、かなりの数いらっしゃるという事。

いま検索エンジンで探してみたところ、

「安心:気にかかる事がなく、またはなくなって、心が安らかなこと。」

「安全:危なくないこと。物事が損傷・損害・危害を受けない、または受ける心配のないこと。」

とある。

 

これでお分かりかと思うが、たぶん好ましい状況は「安全であり、かつ安心である状況」だろう。だが実際にはどちらかしか満足しない状況というのが存在し、組み合わせとしては「a) 安全だが安心ではない状況」と「b) 安全ではないが安心している状況」とがある。

 

前者であるa)の状況では、文字通り「安全」は確保されているのだ。だが自分としての感覚では怖かったり、苦手だったりすることで「安心できない」から逃げる、やりたくない、という状況。たとえとしては、遊園地のジェットコースターなどに乗りたくない状況だろうか。

後者であるb)の状況は、「安全」が確保されているとは言えない状況だ。にもかかわらず個人的には安全でないことを知っていない事で(安全だと思い込んで)、安心している状況。こんな状態があり得るのか?というと、ある。その典型例は「そのものをよく知らない時」に起きることが多いのではないだろうか?それに詳しい人が見れば、「そんな危険なこと!」という事でも、知らない人なら平気で「やってしまう」。怖さを知らないからこそできる行為であり、場合によっては偶然それがうまくいくこともなくはない。とはいえ、そんな中で「安心して」できているのは、それによって最悪の結果がどうなるのかを想像できていない、知らない場合がほとんどで、「いや最悪の場合ね…」と知ったとたんに、もうそれ以後はできなくなったり、「安心でなくなる」事の方が多いと思うのだ。こうした状況の一つは、小さな子供が刃物を取り扱う際に起き得る状況といえるかもしれない。

 

この後者b)の状況は、いくら言ったところで想像できなければどんどん進めてしまう、いわば「痛みを伴わないと反省できない」者には、言っても聞き入れられない状況だ。にもかかわらず、「ダイジョブダイジョブ!」とか言って「忠告を聞き入れず」にそこに踏み込み、最悪の状況になった際には「助けてぇ」と泣きつく。正直なところ、忠告を聞き入れなかった時点で自己責任を意識すべきはずで、忠告した側は巻き込まれる必要はないはずだ。バカに付き合っているほどの暇人はそうそう居ない。

 

前者a)の状況は、安全だといって根拠をロジカルに展開して説明したとしても、でも個人的には受け入れられない場合だ。昨今、メンタル的に心配事が多い人は「でもぉ…」とあらぬ想像をしてしり込みをする。それはそれでもうその人それぞれの嗜好でもあり、放っておくしかないと考える。

 

だが、世の中はこのa)もb)も、どちらも結構多くいて、集団で動かざるを得なければならない場合に、論理的思考で、きちんと考えたうえで進めれば確実に進めるところをそうした個人的理由でブレーキばかり踏む人、逆に何も考えずにアクセルだけ踏む人を調整しながら動いていかざるを得ないという事。

やっぱ、考えない人、いやそれのみならず、考えられない人といっしょに物事を進めるのは、厳しい時代なんだよなぁ。