助けられない国

労働人口が減少し、国の人口が減少し、景気がなかなか上向かない現状で、各社はなんとか「成長」せんが為に効率化を追求し、残業が廃止され、堅苦しい日々が続く。

朝の通勤時間の電車遅延も当たり前になり、遅れそうな中、不安や不満をうちに貯めながら、爆発寸前の心をたしなめる。

 

そんな通勤の途中で、誰か困っている人を目にしたら、あなたは彼を、彼女を助ける手を差し伸べられるだろうか?広い心で、にこやかな笑顔をたたえて…なんて到底無理。そもそも、手を差し伸べて助けるための、時間的余裕、心の余裕が無いのでは無いだろうか?

 

そう、突発的に誰かを助けられる為には、時間的、心的、体力的余裕が必要になる。誰かを助けたことによって、助けた側が倒れるわけにもいかない。余裕がなければ手が出せない。

会社員はといえば、助けたことによって時間的拘束を受けたりすると、会社から怒られたりすることも。となれば、命に別状がありそうである場合はまだしも、些細な事情に見えることなら、自分も余裕が無いのだから手が出せない状況。

 

効率化「だけ」を追求し続ける先には、このような状況が現れるのは、ある意味自然なことだ。だから、余裕を生み出したことで、必要以上にその余裕を使い切ってはならない。社会がギスギスし、トラブルに巻き込まれた人を「残念だったね」と見捨てざるを得ない社会を作りたいのなら別だが、幾らかの余裕を守りながら生きていくこと。

その分は、会社に供出してはいけない。自分で抱え、自分で使える分として、戦わなければいけない。

言われるがままの従順な労働者と強欲資本主義は、やがて破綻する。