「目標」は「絶対」か

そろそろ年度が終わる。新しい年度が始まる。それぞれに目標を立て、仕事に、勉強に打ち込む。

 

会社などでの分かりやすい目標は、「売上〇億円」だとか、「シェア〇%獲得」といった数字で示すこと。学生であれば、「点数〇点以上」とか「〇〇資格合格」や「〇〇受験合格」。

 

もちろんみんな、すべての目標値が成功裏に終わることができれば、それほどめでたいことはない。が、考えても見てみたい。すべての目標が「すべて成功」に終わっているとするならば、経済であろうが学業であろうが、誰も苦労はしない。裏を返せば、「達成し得なかった目標」というのが、この世には多数存在し得るという事。

 

じゃぁ目標達成できなかったものはいなくなったり、死んだり、解散になったりするのか?もちろん、そうなるモノもあるだろう。…が、そうならないモノだってあるのだ。

だから、「すべての目標値」がクリアーできなかったからと言って、即、消滅や、死を意味するものではない。

 

ただ、あまりにその(守らなくても大丈夫という)メッセージが強く出すぎてしまうと、

「なーんだ、守らなくてもいいじゃん。」

と甘えが出る者が少なからずいる。だからハッパをかける。

 

ただ覚えておいてほしい。目標が達成できなかったからと言って、すべてが終わり「ではない」という事を。頑張ろう、でも、無理なものはムリ!

 

 

こだわり

ちょっと高級なレストランや、小料理店に行くと、こだわりの逸品などというものが出てくる。

ちょっと高い、が、確かにうまかったり。

場合によっては、目で楽しみ、香りで楽しみ、味で楽しめたりする、それは素晴らしいものまである。

 

いや、料理の話がしたいんじゃない。「こだわり」にこだわりたい。

こだわりとは、執着。「それ」について突き詰めること。

別の言い方をすれば「オタク」だ。

 

1980年代、オタクという言葉は蔑まれた。ちょうどそれにまつわる事件などが起きたことも、言葉の印象を悪い方へと引きずった事も一因だろう。

 

だがそれ以後、徐々にオタクという言葉は市民権を得だしていると感じる。それはこだわりであり、深くその事に精通している場合がほとんど。当初はアニメ関係ばかりが取りざたされたが、昨今はジャンルは多岐にわたり、鉄道や食、娯楽から生活の隅々にいたるジャンルにおいて、深く追求している者をオタクと呼んでいる場面を目にする。

 

こだわる事、オタクである事、それこそが誰かよりも一歩抜きんでている事。世界に一つ…とは言わないまでも、クラスでNo.1だったり、組織でNo.1だったり。

なんでもいい、何かにこだわろう。たぶん、こだわり続けられる事やモノは、好きな事やモノ。やっと日本でも多様性が認識される土壌が作られつつある。あなたの「こだわり」を表明しませんか?

こだわる事にこだわりましょうよ。

 

 

 

自分以外のために、自分自身のために

ドラマなどのシチュエーションでよくあるのが、「自分などもうどうなってもいい」と、自暴自棄になるシーン。

だが、同じくドラマなどでよくあるのが、「お前が〇〇しなければ、こいつがどうなってもいいのか?」と人質を取るシーン。要するに、「自分自身」ではなく「自分以外の誰か」がと対象が自分以外になるシーン。

たいていこうしたシーンでは、抗えない。屈服せざるを得なくなる。これがたとえ自分とはそんな近しい人々出なかったとしても、「人の道」として抗えない事がほとんど。

 

サイコパスなら話は別だが、それほどに、誰かを大切にしなければ、という力は強いもの。

さすがに、見知らぬ他人の命を懸けてとまでは言わないが、それでもそんな「自分以外の大切な誰か」があるという事、それ自体が「パワー」を生む。

その人の為なら、その子の為なら、頑張らないと…。いままで適当にやってきたことも、手を抜いてきたことも、この人の為ならば悔い改めざるを得ないことに。

 

そこに、甘えが生まれるような間柄であると、「パワー」は弱くなる。が、抗えない人、自分の事を勘案などしてくれない人、典型的には赤ん坊であったりすると、もうこれは「その子」のために何とかせざるを得ない。

 

自分自身などどうなってもいいという人がいる。だが、ふと周りを見回してほしい。そのあなたの価値は、あなた自身が思う以外に、「他人が思うあなたの価値」ってものが何等かに幾ばくかはあるはずで。それをあなた感じられた瞬間、それ自身が「あなたの力」になってくれる。

 

誰かがいるから、あなたが存在し得る。

そして、あなたがいるからこそ、他の誰かが存在し続けられる。

今いること自体がパワー。なぜそれを投げ出そうとしますか?

どこかでそれを欲している人が必ずいらっしゃいますから。

今はたまたま、あなたの目に触れるところに見かけられないだけですから。

 

「指示待ち族」の作り方

組織に属したり、仕事をしたりすると、自分から率先して仕事をする人は重宝される。反対に、指示されないと動けない人は嫌われる。会社員のみならず、アルバイトなどでも同じだろう。

 

だが、今はそうして指示されないと動けない人でも、もしかすると昔は自分から動いていたかもしれない。何がきっかけでそうなったのか?

 

自分から動くためには、自分から「次は何が必要かな?」と考えなければ動けない。そうするためには、次にこれをやっておけばいいかな?次にこんな準備が必要かな?それを考えて、考えた事のために動き出す。

とは言え、すべての考えがあっているとは限らないし、間違っていたり、その場のしきたりに合っていないやり方もあるかもしれない、そんな時。

「何無駄なことやってるんだ!」

とただ怒られると。

 

一度や二度ならまだしも、何回もそういう場面に出くわすと、こういう考えがよぎる。

「自分で考えても間違えていることが多い。なら、間違いないように、言われたことをきちんとやろう。自分で考えているだけじゃ間違えるぞ。」

 

要するに、何かして、ちょっとした間違いを犯したら、即刻ダメ出しを出し続ける。怒る。何で勝手にそんなことをした!と怒鳴る。これだけを何度も繰り返す、それだけで、指示待ち人間のできあがり。

 

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落ち着いて考えよう。考えて作業をしようとする方と、作業を受ける方と。両者の対応がかみ合ってこそ、指示待ち族を作らない事になる。この組み合わせがかみ合わない場合の結果として、指示待ち族が出来上がる。当然、「合致する組み合わせ」はそう多くない。だから「柔軟に対応できる受け手側」と「柔軟に対応できる指示側」がいればすぐに良い組織になるのだが、どちらかに柔軟性がないと、片一方が実力以上に寄り添わなければならなくなる。

 

組織や会社は、「指示待ち族」を好まない。だが、彼らすべてが「柔軟な受けて」であるとは限らない。時に一方的に「作業者側が柔軟に対応せよ」と協力に強いてくることも少なくない。

だが、上述したように、要はどちらもどちら、受け手側にも、送り手側にも、どちらにも対処すべきやり方がある。片一方だけが悪いわけではないはずだ。

 

双方に、考える、褒める、という正しいメッセージを投げあうことを意識しなければ、到底「よいチーム」にはなりえない。でなければ多くの場合、その場で伝える一つ一つのメッセージが、自分で考えるな!間違ってる!という事になり、結果的に指示待ち族を作ることになる。伝える側の責務やテクニックが低いことが、効率を下げている原因にもなっているという所以。

 

でも、組織や会社で、その意識を持っているところはどのくらいあるだろう?たいてい、「最近入ってくる奴らは…」と外の責任のみにしがちではないだろうか?そもそも、その頭の硬さが、その組織へのマッチング度合いを下げているはずなのに。

統計的意義

それはアンケートではあるのだろう。が、あくまで質問に対する答えの集まり以上ではなく、統計的意義のないものがあまりに多い昨今ではないのか。

 

母集団の数の少なさ、偏り、など、基本的前提が踏まえられた上でのみ、その「割合」や「傾向」は統計的意味を持つはず。

だがネットが普及するにつれ、ネットで発表されるアンケート結果や、街頭で「とりあえず」聞いて見た結果、たかだか母集団30人とか50人程度で、その何パーセントがどのような…などと堂々と表されたその数字。その数字に何の意味があるのか?傾向?なんですかそれは?ネットだけが悪いとも思わない。確かにテレビ番組でも、母集団の数によらず、当たり前のようにグラフ化し一般化された現実のように振舞っている。それを読む方は読む方で一応に、あぁ、そうした傾向なのか…と、統計的意義があるのかと受け止めかねない状況。

統計的異議とは、何度実施しても同様に確からしい数字になる傾向になるという事のはず。が、本当にその数字はそうなりそうなものか?

 

なんだこの勘違いの連鎖は?

 

多くの数字が、学園祭のクイズイベントと同レベルになってやしないか?それを読み解く方のリテラシーの無さも、さらに情報を作る方の知識の無さも?いや、作る方は特に「めんどくささ」といった方が的確かもしれない。その両者が相まって、意味のない数字が闊歩しだす。

 

そしていつしかそれが世間の「共通認識」となってしまったりもする。

それもこれも、やっぱり「数字」というとらえ方や意味に関する学習の基盤が、きちんと整っていないからではないのか?だからテレビ番組ではインチキなグラフ表記がまかり通り、それを信じて他の誰かが、その偽情報を拠り所に動き出す。無駄が無駄を生み、意味のないことがその上に論を重ねることで、無駄の上に「城」と築こうとしていないか。基礎がグラグラなその上に。

 

こんなことを描いている私も含めて、きちんと「統計」を学ぶ機会はまずなかった。だが何処かで誰かが、少し諭した方がいいんじゃないのか?さすがに最近は目に余るものが多すぎる気がするのだが。

数学や算数は、生きるための道具。知らない人は知らないなりの、知っている人は知っているなりの世界で過ごせるところ。

考えてごらんなさい、保険会社が適当な統計情報を元に、保険料を上げてきたとしたら?