対象となる時間

1時間かかって仕事をした人に、1時間分の対価を払う。たとえば時給1500円ならば1500円。2時間かかったならば3000円。これは理解されるだろうし、多くのアルバイトなどにおいて支払われている前提がこれだろう。

 

他方、普通の人に頼めば2時間かかるが、よりそれに詳しいスペシャリストに頼めば30分で済むこともある。
普通、こんな場合には、「普通の人」というのはある意味素人で、時給が1500円で2時間分3000円で対処する。だが、スペシャリストにも「同様の単価」で750円しか支払わないのか?はあり得ない。

通常、スペシャリストは時間単価は高い。だから30分でも3000円。ただ、30分で済んだことで、それ以外の(通常2時間かかっていたであろう残りの)90分は他の事に使えるという意味を考えれば、それでも安いという考え方もあるだろう。

要するに、スペシャリストに対しては、見かけの作業時間で支払われているのではなく、それをその時間で対処できるようになったという、そこまでの総合的価値に対してお金を払っているという事なのは、言うまでもない。

問題は、普通の人がスキルアップした際のスペシャリスト性をどの様に認識し、反映させるのか。スキルを見極めるスキルをどう持ち得るのか。

 

にもかかわらず、昨今は「目の前の時間」「作業時間」にのみフォーカスする。働き方改革の多くが「働く時間数」しか見ていない、気にしていないことが多すぎる事。時間「だけ」を減らしたいんじゃないでしょ?

高い、安いを判断するというのは、見かけの時間のみの価値判断しかできていない、しない、という事に過ぎない。「どの時間」「どんな時間」にフォーカスするのか、してもらうのか。