Pokémon Goの落とし所

久しぶりにPokémon GOを開いてみる。

なにやら、セブンイレブンポケストップになっているなどという情報が流れているけれど、Ingressの際にもローソンが話題になったいたので二番煎じ。それでもPokémonは季節によっていろいろと話題を作ろうとする努力は認める。が、近所を見てみるとなにやら圧倒的な状況も。

場所に依るのかもしれないが、「カイリュータワー」があちこちに。すべてがカイリューや、CP3000以上のモンスターで占められたレベル10のタワー。もうこうなってしまっては、あぁ、ここはバトルは無理なんだなぁという諦めが先に立つ人が多数出るんじゃないだろうか?

 

今さらながらPokémon GOをやり続けている人がどれほどいるかという疑問もあるし、すでにオジサンオバサンしかやってねーだろとか。今から初めて参入しようとしている人もどれほどいるのか疑問だ。が、これに限らず、「参入タイミングを間違えると、二度とそれに入れない」というゲーム市場が存在するのではないだろうか?

 

ある意味、ゲームバランスの問題ではあるのだろう。投入直後からそれで遊んでいる人は、時間がたてば、より高度な事、よりむつかしいことができるようになり、その報酬(スコア)は高いものが求められる。だが、後からそのゲームに参入した人は、そうしたレベルの高い人の場にいきなり放り込まれても勝てる見込みがない。だから勝てない→面白くない。だからそもそも続かない、遊ばない…というネガティブスパイラルに入る可能性が高い。

 

長く遊んでいるユーザーには、長い期間ユーザーであっても遊び続けられるというインセンティブを。でも、新規ユーザーを開拓して対等に遊んでもらうためには、初期ユーザーにおいてもそこそこ遊べる、勝てる、快感を味わえるインセンティブを。この二つが真っ向から背反しない形でゲームワールドを構築し、バランスさせるのは、特にオンラインゲーム化された世界ではむつかしそう。何かうまい成功例ってあるんでしょうか?

 

一つは、そうしたレベルに応じたステージづくり。もう一つは、かならずそうしたバランスを保ったチームでしか参戦できないチーム活動重視のステージづくり。…くらいは思いつくのだが。

 

ことPokémonでは確かに、地方自治体において人集めの役には立っているかもしれないけれど、それにしても、新規参入者と古参ユーザーとの間を、バランスを取りつつ両社が共存し、両社がそれぞれに興味を持ち続けるという環境を作るのは至難の業だろう。

 

あらたなモンスターという種類を増やす以外に、遊び方、楽しみ方がもっと広がらないと。

…なんてことは、ゲーム業界の頭のいい方々が作っているので検討済みだと思われますが。でもこれ、社会システムも似た側面があるはずでね。

そもそも、小中学生のゲームじゃないんじゃない?Pokémon Go…。

スポンジと液体

お風呂掃除などで使われるスポンジ。

風呂用洗剤を垂らして、風呂桶を磨いたり。

合成繊維で作られたスポンジもあれば、自然の海綿のスポンジも。さすがにこちらで風呂桶を洗うほどの贅沢な人はいないと思うけれど。

 

スポンジに限らないけれど、液体をたっぷり吸収する能力を持つ物質。ただこれは、その周りにたっぷりの「液体」があってこそ吸収できるのであって、周りに吸収すべきものがなければ、そもそも吸収すらできないという事。

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先日、渡航歴のない中学生が、TOEICでほぼ満点を取った、なんて記事が新聞に載っていたかと思う。その子はどうやら子供のころから英語が楽しくて、それを見た親御さんが、最初はカードや絵本から、それから簡単なレベルの本を続々と与え続け、子供の興味が続く限り、それに対して情報(液体)を供給し続けた、その結果。
子供の興味は、本当に大人が驚くほど「集中」する。それが大人から見て面白かろうがつまらなかろうが関係ない。もちろん、多くの家庭において、経済的、時間的制約があるから、「もうここらへんでご飯に」とか、「ほかの興味も」とそちらに子供の気をそらせることが多いだろう。だが子供からすると、そこでどんどんとそれにまつわる情報が与え続けられると、そして適切な情報の難易度上昇があると、まさにメキメキと音が聞こえそうなほどに、その分野で子供が成長しかねない。その英語版が、今回の記事ではないだろうか?

 

適切なタイミングで、適切な液体(情報)が周りにあれば、スポンジはいともたやすく吸い込む。もちろん、さまざまな経済的時間的制約もあるだろう、すべての親がすべてに精通しているわけではないので、適切な教師信号を発することができる人物が周りにいることも大切になる。そこに、その人にどれだけ集中して、適切な液体(情報)を供給し続けられるのか。

 

たぶん、英語のみならず、これからはプログラミングスキルもそうなりそうだ。

そしてそれを楽しんでいるロールモデルとしての大人が周りにいれば。

(でも今の「プログラマー」環境から推察するに、とても日本においてプログラミング能力があちこちでメキメキと発展するようには…)

 

 

ルール、社会、秩序

少し前に、新幹線のリクライニングシートを倒すのは是か否かみたいな論争が。

なんと馬鹿らしいと思いながらネットの記事を読んでいたのだが。

 

そもそも、「装置の機能」として設置されているものに対して、使うべきか否かといった議論をする方がおかしい話。だから、使うべき、いや、使うべきではない…という論点自身がまずズレていたり。

とは言え、倒される側としては、突然何の前触れもなしに倒れてきては困る場合もなくはないだろう。なので、それは倒す側のエチケットとして、気を付けて倒すとか、ひと声かけてから倒すとか。少なくとも、周りに影響を及ぼしそうなことには、周りに「合図」を送ろうよ、というだけの話。「承認」じゃないよ、「合図」。これ以上議論の余地がある事自体が不思議な国。

 

そもそも、日本はそんな社会の中でなんとなく慣習としている事がルール化されているかのようになっている事自体が不思議な国。コミュニケーションが下手すぎる国だ。

 

ルールだから従うのか、ルールになければ何をしてもいいのか…という二択になっている時点で「ハイ間違い」。ルールになっていなかったとしても、相手を見極めて、常識として対処するのが成熟した社会。

 

たとえば他にも、エスカレーター。

関東では、左側にみんなが乗って右側を空ける。それはエスカレーター上でもじっとしているのではなく、自ら上りたい人ように空けているというなんともあるような内容な理由っぽいのだが。

だがこれ、朝のラッシュ時においても、左側にながーーーーい行列を作って待っていて、右側は1列空いてる…なんてシーンも目にする。それ、あけておく必要ありますか?そっちの方が効率落ちてませんか?何のために守っていますか?

 

いや、それに従う意味も分からないわけじゃない。時々、個人が臨機応変に対応しているのを、「なんでお前だけがルールを破っている」と、「自分も我慢しているであろう、ルールを守って自分で考えない人」から文句を言われるのが嫌な人、対処がめんどくさい人は、おかしいと思いつつもそれを踏襲したりする。

 

結局、ルール化する、明文化されているのに従う方が、面倒が降りかかってくる可能性が低いからこそそうするということ。少しの我慢で面倒を遠ざける。特におかしな事、ひとに巻き込まれたくはないからね。

 

多様性を認めんがために、多様性向けの(面倒が起こりにくい)ルールを制定化しないと動けない社会。でもそれ、僕らが求める社会なのかなぁ?本当は、個々に、そのシチュエーション別に判断できて、でも全体もうまく回る社会の方が、住みやすいんじゃないのかな?

結局、住みやすい環境、社会、そしてそれらを維持するルールが降ってくる、誰かに与えられる…ということを求めていては、結果的に僕らが生きづらい社会になるのでは?多少自分自身で苦労しないと、結果的に生きやすく、生活しやすくならないのでは?

 

…それにしては、日本の社会は劣化しだしているのではないか?という危惧もあるのだけれど。怖いんだよね、最近、社会が。周りへの合図も出さずに行動する/されると、受け身の取りようもなくてさ。

 

「控える」選択肢

一般的に「控える」ことは、「慎ましさ」ととらえられるかもしれない。

ただしそれは「その人」による。

 

日ごろからの行いがつつましやかであり、そうして控えることにより他の誰かを擁護したり、攻撃の手から守ったりというのは、たしかにつつましい。

 

それに比較して、そもそも「控える」ことで、他人ではなく自分や自分たちを擁護したり守ったりするのは「慎ましさ」ではなく「自らを守る保守的行為」だ。さらに言えば、本来「明らかにすることを拒否できない立場」であるにもかかわらず、明らかにすることを「控える」という言葉で「拒否」を表すことで、だまされていることはないのか。

 

すでに、「安全な就職先」として有名な「公務員」だが、これは「公僕」という役目があり、彼らは市民からの税金で成り立っているものであり、おおむね「拒否(控える)」する立場にはないはずだ。
ただし昨今は、さらに大きな秘密保護法などという事で、組織自体を守らんが為に非公開事項をさまざまに設定して公開を阻もうとしているところさえうかがえる。

すでに、僕(しもべ)側における黙秘権が発動されている…ととらえるべきか。

 

定時で帰らない忙しさ

プレミアムフライデー。いったいどのくらいの会社で意味のある活動がなされているのか、ひじょーーに怪しくて笑ってしまうのだけれど。あなたの職場では、定時に帰っていらっしゃいますか?

もちろん、人によって、職種によって、定時に帰れる仕事もあるだろう。東京近郊のターミナル駅は、金曜日でなくとも、夕方5時半から7時ごろにかけては、帰宅ラッシュの人の波を目にする。

 

それでも定時で帰らない/帰れないというのは、そもそも、「そのまま仕事をしていても間に合わない公算が高い」という事が見えていたり、「そもそも仕事の量からして間に合うとか計算されておらず、まったく間に合わない」という事から残らざるを得ないという事かと。

 

さらに、それとは別に、残っていることによって、「おっ、あいつ、仕事しっかりやろうとしているな」と見られているという承認欲求を満たしているというポイントも外せない。

 

ただこれが曲者で、そうした「承認欲求」があるのをいいことに、ならこれもついでにとか、こっちもやっておいて…と、「お願いする側」が都合よくとらえ始めてどんどんと仕事を追加する事も。
結果、承認欲求が満たされる範囲を大きく超えて、人をストレスでつぶしかねないほどに仕事を背負わせている現状が。

 

以前こちらでも書いたけれど、そもそも「定時で終われる量」という大前提があってこその定時での帰宅。たぶん今の定時帰宅は、「その日に定時に帰ることを実現するために、その日以外にタスクを振り替えている」という状況を生み出していると容易に推測される。

 

仕事をする側とやらせる側の双方が理解してこその定時帰宅。それをそもそも、仕事をする側だけに押し付ける…ってのが、バランス悪すぎじゃないですか?

いつまでスーパーのPOPに、プレミアムフライデーが残り続けるのか…、まぁ、今年の夏までがいいとこなんじゃないのと想像するんですけどね。