勝つことと

ゲームやスポーツ。それはある意味での「戦い」を模倣した形に落とし込んだもの。

だからこそ、勝ち負けがはっきりしたり、そのためのルールが細かく設定されていたり。こうした勝負の場が設定されることにより、わかりやすく、素早く結果が出せる環境が良いところでもあり、平和的に切磋琢磨できるところが利点の一つ。

 

だが「実際の闘い」や「争い」がそれによってすべてなくなった…と言うわけではない。国同士の覇権争いで、今や非常にキナ臭い状況になっている。

 

ビジネスの世界も、デジタル社会、ネット社会になって、ルールが激変し、それに対応できない企業がボロボロと消え去り、新しい会社がメキメキと頭角を現してきたこの20年。勝者と敗者はある意味鮮明に分かれてしまった。

 

しかし思うのだ。特にビジネスにおいては、「自分たちが勝つこと」と「それにより誰かが負ける事」はイコールではない、と。もちろん「相手を負かすことで勝つビジネス」も存在はするけれど、すべてがそれではない。
となれば、こうとも言える。「大きく勝ちはしないかもしれないが、負けない事」はありうる。

昨今の日本の企業において、労働人口減少もあいまって、ビジネス環境はかなり厳しい状況に置かれている印象を持っている。景気が回復していないことでジャブジャブとお金を刷っている現状があるけれど、すでに労働者を奪い合う状況は、正規社員、非正規社員ともに見え始めている。賃金も上げていかざるを得ないだろう。そんな中でどうやってビジネスを継続していくのか?

どこかに勝つ!…のも手だけれど、負けない事、会社経理上、赤字にならない事こそが一つの大きな視点だろう。負けなければ次につながる。次のチャンスにまでつなぎ続ければ、いつかは大きく打って出られる時が来る。そこまでは「負けない」事。

 

それこそが、世界に一つだけの…って意味じゃないのかな。

 

それはあなたの10分ぶんではなく

会議が多い。

月曜に会議があり、火曜にも似た会議があり、水曜日すら似たメンバーで会議がある。でもそれぞれ少しずつ違う内容、違うメンバーが含まれる。だから会議を整理してくれと頼まれる。

 

さらに、そんな会議に遅れてくる人。時間にルーズだとは言わないけれど、兼務が多すぎて遅れざるを得なくなっている人。忙しくなっている、出ないと仕事が回らない。けれどそれによって、モチベーションが下がる方向になっていないか?

 

たとえば、10分遅れてくる人がいたとしよう。これは、その遅れた人の10分ぶんが削られたのではなく、「待たされた人全員分の10分ぶんが無駄になった」ということ。

なので、

 ・待たせている人数 x 10分ぶんの価値

が無駄になっているという事。

例えば、正社員なら、換算した時給が1500円とするなら、1分あたり25円相当。10分で250円の価値に。かけることの人数分。

平社員のみならず、けっこうお偉いさんなどが入っている会議と、とても1分25円じゃすまない。1時間何万、何十万という人だっているのが社会の仕組み。

 

そう考えると、「私の遅れ」による価値は、あっという間に何万も何十万にも上る。人件費が最も大きい比率を占めていることがほとんどなので、あたりまえではあるのだが、そうした意識をどのくらい持てているのかどうなのか。

 

「この会議は、1時間で、いくらかかりました」

とパワーポイントの最後に入れてごらんよ。みんなが目を丸くするから(笑)。

PCを持たない人々

すでに大学全入時代。入るところを選り好みさえしなければ、誰でもが大学に入れる時代にすでになっていると聞く。結構な学費がかかるという事さえ除けば、日本の若者は総じて高学歴が「あたりまえ」になりつつあるのが今の時代だという事。逆に言えば、使えない学士を量産しているとも聞くのだが。

 

であるがゆえに、「高学歴」だからみんな以前より頭がいい、使える、仕事ができる…とはならないのが世の常。都会の列車に乗ればお分かりの通り、皆さんの多くはすでに「スマホ」を使いこなす世の中になったのだけれど、これは「何でもかんでもスマホで済ますことができる時代」という事でもあり、上記の高学歴の学生さんにおいてさえ例外ではないという事。

 

会社に入ればすでに、仕事の多くはパソコンという「道具」で進められている。一昔前の、「読み書きそろばん」に匹敵する能力が、パソコンでメールを描いたり、書類を作成したりする能力に進化したと言い換えても過言ではない。
だが、上記の通り、大学生においてさえ「スマホ」で済ますことができる世の中になりつつあり、大卒であったとしても「パソコン」を使いこなせない人が多く出始めている世の中に。

 

つい20年ほど前は、パソコンのキーボード入力に、日本人は抵抗があるだろうといった議論さえなされていたけれど、今時は、仕事でキーボードが「叩け」て当たり前。入力方法などわざわざ会社で教えるところは、よほどの特殊な職場でなければないのではないだろうか?

 

それでもスマホタブレットがこれほど出回っている世の中。極端な言い方をするなら、スマホタブレットは、主に「情報を見る人」が使う道具であり、他方パソコンは、そうした「情報を作り出す道具」だとも言えなくもない(もちろん、スマホでもタブレットでも、作れることはいろいろあるのは重々承知なのですがね…)。

要は、見るだけの人か、加工できる人か。

処理方法が分かっている人か、そうでない人か。

 

今や改めて言うまでもなくネットの時代。すべてではないけれど、たいていの情報はネット上に結構ある。どうやって探すのか?そこにひとつの関門があり、その情報をどのようにアクセスし、画面に呼び出し、理解するのか(場合によっては加工するのか)でさらなる関門がある。要するに、知識と技術さえあれば、考えて学ぶ力さえあれば、どこにいてもなんらか新しいことを生むことが可能な便利な時代。逆に言えば、そうしたリテラシーが無ければ、いつまでもそのレベルから抜け出せない時代。生きる力としてパソコンを使えることはやはり基礎実力として必要な時代のはず。

 

弱点を意識する

学業にせよ仕事にせよ、弱点をなくそうと勉強し、学ぶ人がいる。確かに、めちゃくちゃできる人は何でもできて、本当にすごい人がいるけれど、何でもかんでも「満点」はあり得ない。万に一つ、何百万に一つの確率でそういう人がいたとしても、それはたぶんありきたりながら「欠点が見つからない事」が欠点だなんていうことなんだと本当に思う。

 

弱点は誰にでもある。勉強できる人が運動できなかったり、どちらもできるけれど容姿が残念だったり。「弱点」というからいけないポイントのように感じるかもしれないけれど、要するに「得意でないところ」という意味だととらえればわかりやすいだろう。

 

その「得意でないところ」をどのように自分で意識するか、とらえるか。それこそが自分と他人との界面におけるアプローチポイントの一つになるだろう。

海外においては、「私はこれができます!(えっへん)」的なアプローチが趨勢を占めるようだけれど、かなり欧米化されてきている日本においてはまだそこまでいかない。むしろ「ここがまだできなくて」と謙遜から入る方が、組織やグループ内には溶け込みやすかったりする事さえあるくらい。

 

弱点だから近づかないというのももちろん一つのアプローチ。だけれど、弱点だからこそ、何を間違ったって当たり前でしょ…と果敢にアプローチする人もいる。こういう人、実はとっても伸びたりする。素直だとか、チャレンジャーとか言われる人でこういう人が多いのだけれど、弱いからこそ「間違って当たり前、失敗して当たり前、それより、経験せずにいることの方がもったいない。だからいっちょうやってみる!」というその精神。

 

もちろん、そうしてチャレンジしても、失敗もするし、大した結果を生みはしないのが最初のチャレンジ。でもそこで「おもしろさ」に目覚めることがあれば、もうこれは「弱点ではなくなった」に等しく、メキメキとその才能に開花する人がいるくらい。

そのためには、「いつそれにチャレンジする」のか、「どんなコーチ(人)が教えてくれる時にチャレンジする」のかを見極めることが重要。

いわゆる義務教育や高校くらいまでは、まず先生を選べない。が、一度社会に出たら、「先生を選ぶ」ことほど重要なことはない。うまく教えてくれる人、楽しく教えてくれる人、真の楽しみのポイントが分かっている人に教わるのとそうでないのとでは、全く広がる世界が違う。

 

弱点を意識し、そして先生を選ぶ。
やっぱり人生は、ずっと先達を探し続ける旅なのかな。

考えることが(盲目的に)信頼することに変わっていないか

民主主義の手法の一つとして、選挙というのがあげられている。最近もあちこちの都道府県や市町村における首長選挙が行われている。これによって、推している政党が指示されたの、いや劣勢だのとメディアが報道する。

 

選挙でえらばれる人も、選挙で選ぶ人も、今一度考え直した方が良いんじゃないかと感じている。

選挙で選ばれた方は、勝ち抜いたことで、「ここから数年、任期の間は、なんでも俺の思い通りできる…」わけではないからね。あなたの「すべての考え方」が信任されたわけでもないからね。

特に昨今の選挙は、一部の争点だけが認められたか否かを取り上げがちだけれど、それ以外のところも何もかも認めている有権者…ではないはずだ。選挙の時に語っていなかったところは、きちんと説明し、意思を表明し、それを信任させてこそ代表者としての責務を果たすという事。これを昨今の当選者の多くが勘違いしている気がして仕方がない。

そもそも現役政治家で、「丁寧に説明する」の結果が今の現状だ。ヤル気あんのか?って感じじゃないですか?

 

選ぶ方も選ぶ方で、一票を投じる際に、盲目的に任せていないか?本来は、政治について考えに考え、それらを任せられる人を選ぶ必要があるはずなのに、「(あまり考えずに)まかせた、信頼した!」といった軽い気持ちで選ばれている人が多い気がする。

もちろん、そうでしか選抜できない候補者群という実情があるからこそ、そうした投げやりな気持ちにもなる気持ちはよくわかるのだけれど。

 

時々思うのだ。実現はまず不可能なのだけれど、今の「信任投票」ではなく、「不信任投票」という選挙形態があるとしたら、いったい誰がもっとも票が少ない(結果的に信任される)のか?と。

入れたくない人はたくさんいるのだよ。

ただでさえ人口が減りつつある日本で。やはり政治も人材不足が否めないんだよね。

足の引っ張り合いの国で、やっぱり目立つと損なんだよね。orz