鳥は優雅に飛ぶ

情報に物理的な形を与えることで、人は途端にそれらを扱いやすくなる。たいていそれは、記録媒体と呼ばれる。

音楽という情報を、「レコード」や「カセット」「CD」「MD」という形にして来た。時間にして60分から90分程度の長さがひとつの形となったものが多かった。
今の技術をもってすれば、CDの大きさの媒体に、発売当初のCDクオリティでの音質を維持したまま、何十倍もの演奏時間分の音源を詰め込んだパッケージを作ることはできる。が、そうはなされていない。そうして詰め込める情報は、時間方向ではなく、時間当たりの情報の密度の増加に利用されてきた。
でも、そうした高密度の音媒体の売れ行きは、あまり芳しくなく、パッケージの形を保っているものは未だCDだったりするのだけれど。


映像も形を持った。それまでは放送映像を、放送された時間に見るだけだったものが、録画装置の発明が可能になった。「β」や「VHS」という方式がせめぎあい、「VHS」は、長きにわたり君臨した。

個人撮影の映像も、ほぼ同時に進化した。「VHS」と互換を持たせた「VHS-C」をはじめ、「8mm」「Hi8」「DV」「miniDV」「DVD-R」などと形を変え、徐々に交換メディアとしてのカートリッジは小さくなっていった。


そして今、音楽も映像も、再び形を失い始めている。
カートリッジという交換可能なパッケージ形態から、再生機器から取り外しできないHDDへと進化したり、もしくはシリコンメモリーへと記録することが主流になりつつある。

いや、正しくは「再び形を失った」のではなく、形状や重量としてハンドリングするには大きすぎた情報が、形や重さは情報集積度の向上でハンドリングがしやすくなった分、その情報集積度によって集積された情報密度が高すぎることにより、ハンドリングがしにくくなったのではないだろうか。
メモリーカードの着実な進化で、指先ほどの大きさのカード型メモリーに、莫大な量の情報を含めることが可能になった。集積技術が進化し、あまりに小さな空間に、超大量の情報を収納できることが可能になったため、それをその小さな塊で扱うには、情報が“含まれすぎている”。本当はもう少し扱いやすい塊の単位で分解して扱いたい、そのために、ふたたび情報一つ一つを取り出したくなった、と考えるべきなのかもしれない。
“持ち運ぶ”には十分に小さくなり、便利になったのはいいのだけれど、“知的操作”をするには“塊”が情報量的に大きすぎる。

 

ポストイットなどで思考や議論を整理する手法がある。別にポストイットのように粘着剤がついていてもいなくても構わないのだが。
当初は、その付箋一枚一枚に、一つの意見を書き、情報を出し切る。一つ一つが扱える形になっていることで、途端に情報の整理、ハンドリングが容易になる。<分解>
次にそれを何らかの形で分類をし、いくつかの塊を作る。<再構成>
そうしてそれらいくつかの再構成された“適度な大きさの塊”を、情報が生み出す大きな流れとしてのストーリーを理解しようとする(大変端折った言い方なので、詳しくはKJ法などを参照してもらいたい)。
そうしてできた情報全体の流れを「鳥の目」で俯瞰することを可能とする。だが同時に「虫の目」で、個々の事例をも見たくなる。と、いくつか束になった付箋の塊の中を“覗いて見る”ということも行える。この時、付箋の一つの束が、何千何万何十万という情報を持っている塊になることは、物理的付箋を取り扱う際には起こりえない。せいぜい数十枚程度。これくらいが人間が取り扱える情報単位の適切な塊の量なのかもしれない。

 

これまでの音楽パッケージ、映像パッケージは、情報集積方向で技術が飛躍的に進化してきた。ほぼそのすべては、ムーアの法則と呼ばれるレールに乗って、強力に推し進められてきた。だが、数としての大量に取り扱える方向としての技術は、いくつかの階層構造に徐々に収斂させていく手法以外のもので、目新しいものはあまり覚えがない。
大企業が、階層構造を必死でフラット化しようとして失敗し、結局再構造化するなんてのも、適切な塊規模の造り方に由来するような気がしている。

全体をとらえながら、時に個別にも自在にアクセス。この、「虫の目」と「鳥の目」の操作を行ったり来たりする技術や見せ方、超高高度から全体を俯瞰できる位置から、地上すれすれにまで一気に近づき、見ようと思えば個別の状況まですぐに拡大できる。グーグルアース的ブラウズ方法が、物理的な形状を持たない情報管理の空間において、どのようにスタンダード化できるか。

本当に扱いたい、手元で操作したい情報は、実は多くないはずで。いや、個々の情報集積度/密度は飛躍的に上がっているので、実際は、ものすごい量の情報を扱っているのだろうけれど、見かけ上の数が多すぎると、普通の人は破たんするのだ。みんながみんな、そんなに細かいところまで見たいと思っていないというところもあるのではないだろうか。
適切な塊として提供することで、“塊の数”を適切化する技術。