ぬるい世界

自分の意見を持っていいよというのは、裏を返せば、他の意見も受け入れる気持ちを持てということ。「あなただけ」が自分の意見を持ってもよいわけではなく、誰もがすべて自分の意見を持つことを許す、となれば、自分と違う意見も多数出てくる。それはそれで、意見として受け入れる覚悟を持ちなさいということ。

 

自分の意見を持てということをもってして、「自分の意見に合致する意見だけ」を受け入れろということでは破たんする。合致しない意見も存在すること自体を受け入れろということ。

もしも自分の意見を通したいときであっても、(すべてにおいてそれが通せるような、独裁王のような立場ならともかく、そうでない者は、)自分の意見が通る場合もあれば通らない場合もある。

 

他人の意見を受け入れるためには、その意見を理解する必要がある。

自分の意見を受け入れてもらうには、その意見を理解してもらわなければならない。

 

しかし、それでは自分の意見を完全に理解してもらえるのか、他人の意見を完璧に理解し納得できるのか、というのはまた別だ。

まったく受け入れられるものはまずない。利害が一致する部分もあるだろうし、対立する部分もあるだろう。それが、どの程度一致しているのか、対立しているのかは、本来「十分に理解しようと」していてさえいなければ誤解を生じたり、全く分からなかったりする。それを多大なエネルギーを使ってすり合わせることに労力を注ぐのか。それとも大きな誤解を含んだままでも適当にあしらうのか。

 

事実上の進むべき選択肢が少なかった時代なら、しっかり理解しようと/適当にあしらおうと、そもそもそちらの方向進むしかない時代、大きなずれが生じることは少なかったのかもしれない。けれど今の時代は選択肢が多様に広がる時代。きちんとすり合わせないと、すり合わせる努力にエネルギーを使わないと、方向性に大きなずれを生じる時代。

しっかり理解したつもりであったとしても、かならず方向性の違いは生じ、ほころび始める。いや、どんなに理解したと思っていても、すべてほころび始める。それが来週ほころびるか、1年後にほころびるかの違いに過ぎない。

ましてや、ぬるい理解でお茶を濁す程度でごまかしていては、すぐに方向性の違いはほころびるのは当然のこと。

 

コミュニケーションが重要だと言われる時代になったのは、多様性が存在しえる、認められるという裏返し。皆が違う、皆が決して同じではない。思考のエントロピーが拡散し続ける中において、いかにそれらを整え、力を束ねていけるか。

 

考え、交感し、理解しようとし、行動する。