お仕着せ

どちらも子供のころの遊び道具の一つ。粘土は油粘土と紙粘土だったかな。ブロックも、レゴとダイヤブロックくらいが二大勢力で、それ以外にもいくつかあった気がするけれど。

 

わかりやすい方からいこう。「ブロック」は規格品だ。何種類かの形のブロックがきちんと規格され、それがはまるように設計されているところには、カチリとはまる。たいていはプラスチックでできていて、着色されている。

大人になれば別だけれど、子供のうちは、与えられたブロックのピースがすべて。だから手持ちの数が足りなくなってしまうような大きなものは作れない。色合いだって、「もうひとつ青いピースがあれば…」ということになったとしても、仕方なく違う色を使うしかない。

でも代わりのピースが存在すれば、必ずカチリとはまる。基本的に、ガタがでたりしないのがブロックのブロックたる所以。カチリとはまり、取り換え自由。

ただし、最小単位は決まっている。ピース一つ分。あと半分だけ削りたくても削れない。あと半分だけ足したくても、足せない。すべてピース一つ分。

 

「粘土」は決まった形などない。思うがままにひねり、ちぎり、積み上げ、くっつける。ちょっとここが太すぎると思ったところはほんの少しだけ削ればいい。あっちが足りなければ、今削ったのをちょっと足してやればいい。小指の爪ほどでも、握りこぶし大でも、足し引き自由。そのかわり、自分で丁寧につけてやらなければすぐにポロリと取れてしまったり。

また、油粘土は着色できない、形をキープし続けることもできない。形をキープし続けるには紙粘土で作って、乾かして、あとで上から色を塗る。何色でも思いのまま。自分の思い通りの色を塗る。

 

 

組織は、人を規格品のように扱いたがる。ある一定レベルのことが成し遂げられる規格を満たす人を欲しがる。でも、人はブロックじゃないから、いつでもどこでもカチリとはまる保証はない。

いや逆に、カチリとはまりそうにないような“複雑な形状”のところでも、自ら調整して、きっちりとはまり込む才能を持つ人もいる。

人が運用する組織が、組織としてきちんと動き続けるためには、風邪をひいたり、万一の欠員が出たりしたときにも、きちんとリカバリーできる体制や手続きが整っている必要がある。けれど、全く同じ「ピース」としての人など確保できない。部品としての交換パーツ要員は存在しない。だから万一の時には、既存の中において、ちょっとこちらに無理をしてもらい、あちらでちょっと融通してもらいということを積み重ねて、なんとかリカバリーを達成する。達成できる余剰がある。それが組織、いや、古来の日本的組織といったほうが正確か。

 

ジョブコミットメントさせて、その人の時間をギチギチに管理して無駄な残業をさせない(残業代を出さない)、ブロックのごとく人を扱うように仕事をさせて、会社としての効率化を狙おうという昨今。…のわりには、誰かが風邪で休んだら、その時はよろしくとばかりに、手のひらをかえすがごとく、現場に負担をいとわない態度を見せる。

いや、ブロック型であっても、粘土型であっても、どちらもメリットもあればデメリットもある。それは現場担当者にとってもそうだし、会社にとっても同じこと。で、どの部分のメリットをとりたいのか。どの部分のデメリットを覚悟しているのか。いいとこ取りしたいのは分かるけれど、それでも覚悟を決めなきゃいけないところがある。

 

結局、「ブロック」でも「粘土」でもなく、「人を人として扱うことができる組織」こそが、もっともしなやかで、柔軟で、強い組織になっている。そのためにブロックのように扱うのではなく、粘土のように使うのでもなく、人は人として大切にする。結局、もっとも効率高く、実力高く組織を運営するのは、人である強みを引出し、人である弱みをみんなでカバーする組織。