覚えることと、理解すること

覚えなければいけないことは、覚えるしかない。地理や歴史などの社会科、また理科などに出てくる人により命名されたものをはじめとして、国語の漢字、ことわざなんかはそういう情報の集まりの例だろう。

言葉に関する集まりを国語、人や人にまつわる現実やこれまでの史実に関するものを社会、物に関する現象や法則の発見発明、見えなかった小さなもの、大きなもの、遠くのものに関するものを(一部数学的アプローチを含むが)理科。

 

一方、一部分は覚えることもあるけれど、それをよりどころとして理解の幅をぐっと拡げる、という手法は、算数や数学に多い。足し算をはじめとする四則演算は、すべての数字の足し合わせ、掛け合わせ等々のパターンを覚えているのではなく、ルールを覚えているからこそ計算できるもの。

また、0(ゼロ)などという概念を当たり前にすることを典型として、具象を取り扱って説明はするけれど、本来の意味は、抽象を取り扱うことで成立している学問。

いや実は、国語や英語でも、複数形にするためには、基本sを付けるとか、三人称単数の扱いとか、もっと言えば文法ルール全般が、そうであり、そう考えれば、一部のルールを覚え、そのパターンをあてはめてすべてを読み解くという手法がほとんど。

 

ということは、何は覚えなければならないのか、何は覚えたルールをあてはめてパターン認識に持ち込むべきか、ということが、学びの基本。(あ、もちろん、国語や英語には、例外処理というところも、けっこう大きな割合を占めるんですけどね。)

 

 

逆に言えば、知っていなければ決して解けない問題/課題もある。それに対して、過去の知識でいくら挑もうとしたところで、それは無駄なこと。さっさと専門家を呼んでこなければそれ以上進まない。

もちろん、今あるすべての専門の理解は、過去の知識の上に成り立っていることであるため、何とかすればすべてを導き出せる、というのも理屈は理屈。だが、そのためにかけられる時間と労力を勘案すれば、導き出すのがいいのか、専門家を呼んでくるのがいいのかは、自明の理。ということは、導き出せるというのは、そこに「どの程度で導き出せるのか?」という時間的コストが含まれていることを意味している。

時に基本に立ち返るために、覚えていることでも理屈が必要だったり。時間に制約されて、理屈でいくべきところでも、体感的記憶で対処したり。

どちらか、ではなく、どちらで対処すべきかが判断でき、かつそうすることができる能力。難しい。