習うチャンス

小学校では、国語の授業の一環として作文を書かされた。遠足へ行ったこと、家族について、みんなで同じ物語を聞いた感想、読書感想文などなど。もうかなり古い記憶なので定かではないけれど、何と無く先生の感想が付加されて、個人に返却。良い作文だと評されたものが、クラスでひとつふたつ紹介され、読み上げられたり。

中学になっても、同様に作文などを書く機会もあるけれど、小学校時代よりはぐんと回数が減った。(地方にもよるけれど)高校受験で小論文があったので、少々トレーニングがあった程度。それでも、具体的かつ個別に、文章の書き方を指導された、という記憶がない。

高校では、私の場合、作文など書いた記憶は全くない。受験でも小論文があるようなところは受けなかったこともあり、小論文対策と言ったこともなかった。

大学では、「レポート」という形で評価される講義もある。が、上記の通り、文章の書き方、表現の仕方などは、自己流だと言っても過言ではない。多くの人がもしも私と同じような境遇だったとすると、ではその人たちは、どこで、文章の書き方、説得力のある文、意味のとりやすい文の書き方を学ぶのだろう?

よく、本を読みなさい、と諭される。良い文章に触れなさいと勧められる。文章や文体、単語に限らず、そうした読書で培われた力が、文章表現力になっているという部分は、かなりあるのだと思う。もしかすると、大学予備校などでの論文特訓を受けられた人というのは、それはそれで恵まれていたのかもしれない。
今や、ネットを通じて、匿名掲示板であっても、メールであっても、つぶやきやBlogであっても、文章で表現できる/する機会は無数にあり得る。音楽を作るより、映像を作るより、絵を描くよりも簡単で、表現しやすい方法。そんなところにおいて、効果的に文章がかける力を持っている/いないという違いは、実は、大きな大きな差を生んでいないだろうか?
会社においてさえ、メールで、報告書で、プレゼンで、成果を伝える機会も多数。そしてそれらは記録として残り続ける。

ベテランのみならず、新人でさえもコミュニケーション力が強く求められる時代。口先だけで伝えるばかりではなく、文章を書く力、組み立てる力は重要だ。下手な書き方をすれば、炎上も必至。ちょっとした言い回し一つで、賛同を得ることもあれば、反対者を生むことにもなることも。
そうしたことを、誰もが今以上にきちんと習うチャンスはどこかに無いんだろうか?英語英語とばかり言われるけれど、日本語できちんと伝えるトレーニング、受け取るトレーニングをすることは、どの段階での役目なんだろう?それを、個人任せ、家族任せでいいんだろうか?

あなたの“言葉を紡ぐ力”は、どうやって培われてきたのですか?