空回りコミット

職場でもいつのころからか、一般社員レベルにおいても、実質的な成果主義が浸透し始め。日産の社長あたりが、コミットメントと言い出したあたりから、各社のマネジメントレベルでのコミットメントに始まり、社員にも100%連動ではないにせよ、コミットメントが求められるようになる。

 

だが考えても見てほしい。大企業の社長やヘッドクオーターにおけるコミットメントは、確かに難しい課題であり、で、それをクリアーすると、莫大なボーナスが入ってくる。万一そのコミットメントをクリアーできなかったとしても、通常の生活をするには何の問題もない、いや、普通に働く人の何倍もの生活資金としての給与が保証されている。ある意味、生活とは切り離された余剰分のところにおけるコミットメントと、それに見合うボーナス。

 

だが一般社員は?というと、レベルはさまざま。そもそも住宅ローンを抱え、教育費のかかる子供を抱えている層にとっては、それこそボーナスまで見込んだ生活資金を見込んでいたりもする。そこに置いて安易なコミットメントをしてクリアーできなかった日には目も当てられないことになる。へたをすると貯金取り崩しもあり得る。

そうしたコミットメントはたぶん一つではないだろう。クリアーする方もさせる方も、いくつかの複数課題とすることで、クリアーできる可能性を高める。が、仮に3つコミットメントさせたとして、3つともクリアーするとクリアーなのか?それとも1つクリアーすればクリアーなのか?そうしたところのいわゆる労使の協定が非常にあいまいなところが多くはないだろうか?

 

いきなり話は変わるが、野球で言えば、3割打者は強打者だと称される。

博学でおなじみの荒又宏氏曰く、読んだ本のうち、本当に面白いと思えるのは3割だという。いわゆるベンチャー投資家など、3割もの確率で投資がリターンするとしたら、それはウハウハ過ぎるだろう。まぁこれは当たった時のリターンの大きさにも関係するのだろうが。

 

こうしてみると、3割の確率で物事がうまくいったり、成功していくというのは、リターンとのバランスはあるものの、さほどあこぎな数字ではなさそうにも思える。とするなら、3割うまくいくという前提で成功を認める前提で、非常に解決が難しいであろう課題、努力すればクリアーできること、ちょっとした工夫で多分問題なく超えられることといったコミットメントをさせて、1つ以上をクリアーできればまずよしとする、といった形のコンセンサスがあれば、それはそれでうまい目標設定かもしれない。

 

とはいえ結局、労使の間のコンセンサスがしっくりいっていない、課長と課員の間での、部長と部員の間でのコンセンサスがしっくりいっていないからこそ、いくら仕組みを変えたところでなかなかうまく回らない。安易な目標設定にしたい課員と、頑張って成長してもらいたいマネジメントとの間で空回りが続く。

反面、やることが決まっているところでは努力の方向性がクリアーであり、そこそこに成果が出ることもある。周りの環境で流されている先に一緒に流されていたからという人と、自分で泳ぎ着いてそこにたどり着いた人との差が見えづらい。

 

コミットメントの意義は分かるが、それは仕組みが悪いのではなく、コミットメントの大前提となる労使間の関係こそが怪しいのではないだろうか?関係、たぶん信頼関係。そこまではやってくれるだろう、そこまではするだろうという暗黙(である必要はないのだけれど)の規約がどこまで守られるのか。

逆に信頼関係が結ばれているとするなら、ややこしいコミットメントなどなくとも、仕事に打ち込むだろうし、今以上に頑張りもするだろう。本当に身に着けなければならないのは、マネジメント力の向上とか、頑張り力とか、目標達成力などといういままであまり意識してこなかったことではなく、これまで長い時間をかけて徐々に失ってきた上司と部下の信頼関係、会社と会社員との信頼関係なんじゃないだろうか?

 

だれかずるい人がちょっとした信頼関係を犠牲に成果を上げる。

社会状況の悪化を要因に、信頼関係を崩すようなことをしてまでも仕事を続けなければならなくなる。

こうしたことが常態化し、既存の会社組織の多くが疲弊していってはいないだろうか?

もちろん、そんな中でもよくできた上司なんて方もいらっしゃったのだろう。だがやっぱりそれは少数派。それが多数派なら、社会の雰囲気はもう少しましになっていそうで、いや、なっていてほしいという期待かな。少数派だからこそ持ち上げられたり、マスコミに取り上げられたりもする。そんな人ばかりなら、それはネタにさえならないはずで。