見えなくて見えて見えなくなって

エジソンが音をロウ管に記録したときには、きっとその時代の人は驚いたんだろうなぁ。それまで手に取れなかった「音」が、記録されたパッケージに変換されたんだから。

そうした技術ができる以前までは、素晴らしい音楽は生で聞くしかない。それはある限られた場所に、限られたタイミングで集まれる人だけの、もしかすると特権的なイベント。

 

でも、それが記録できれば、「音」を持ち運んで別の場所で聞くことができる。後で聞くこともできる。「記録」と一口で言うけれどその意味は、「時間と空間を飛び越えることができるようになる」ということ。再生装置が必要ではあるものの、それまで記録できるなどとは考えられていなかったであろう「音」が記録/蓄積できることが目に見えた瞬間から、人の認識はきっと変わり始めたことだろう。

 

はじめはロウ管だけれど、それが年月を経て円盤型のレコードという物体に代わる。最終的には1枚の裏表で1時間弱程度の音を記録したそれは、大量に生産されることになる。きっとそれも、録音時間などは徐々に伸びていたんだろうけれど、最初がたとえば10分、15分としても、その10倍程度の60分くらいまで伸びたのがレコードの時代。

 

やがてそれはCDへと変わる。デリケートな扱いが必要だったレコードの比べ、扱いやすく小型に、また、簡便に扱え、さらに音質は格段に向上する。サイズは小さくなったが、長さ的には有名なクラシックが切れずに入るあたりを参考に設計。今では最長70分くらいだろうか。

 

いわゆる12cmの円盤で70分。フルに入っていないものもあるので、まぁざっくりと1枚50分としようか。とすると、10枚持っている人は500分。100枚持っている人は5000分分の曲を持っているということ。

レコード時代だってそうだろう。レコード1枚40分と考えれば、10枚で400分、100枚で4000分分の曲ということ。

だがこれがデジタル変換され始め、パソコンに取り込まれ始めるようになったころから、再び見えにくくなる。

 

一つはデジタル化され始めたことで、パッケージサイズが確定されなくなったことだ。

昔なら、フロッピー1枚、MO1枚という「形」があった(あぁ、MDなんてのもあったなぁ 遠い目)。が、メモリーカード時代に入り、その集積量がムーアの法則でドカドカ増え始めることにより、見かけの大きさは変わらないのに、2倍、4倍と容量が増える。

あるときには「1枚のメモリーカードの容量が256メガバイト」だったのが、そこから少し時間がたつだけで「1枚のメモリーカードの容量が1ギガバイト」へと変化する。値段が高くなるかと言えば逆に安くなったりもする。

デジタルに詳しい人ならまだしも、“メガ”も“ギガ”もよくわかんね、って人はたくさん。たぶんもう少しすると“テラ”級のカードも普通に出回ることになるだろう。

こうなることで、今までは見かけ上「1枚のメモリーカードに50曲いれればいっぱい」だったのが「1枚のメモリーカードに200曲入る」ようになり始める。以前は、物理的CDの枚数、レコードの枚数が時間とほぼ比例していたのが、見た目のメモリーカードの枚数では、記録時間は分からくなってしまった。

そして今では、メモリーカードというカードにすらなっていない、内蔵メモリー方式のプレーヤーで、1台が16ギガか、1台が64ギガかといった形に。

自宅は自宅で、パソコンの中にはHDDが積まれていて、つい先日くらいまでは500ギガだったのが、今では1テラ2テラは当たり前の世界に。もう、容量が足りるんだか何だかよくわからない世界。

昔は形は「テープ」その容量は「テープの長さ」だったのが、今ではデジタル記録ができる媒体たる「USBメモリー」でも「HDD」でも「DVD-R」でも何でも…。形は一定ではないし、それが増量するスピードも尋常じゃない。

 

さらにこれに拍車をかけるのが、曲自体の圧縮の違いだ。mp3でもなんでも方式はどれでもいいのだが、CD同等のADPCM相当のWAB方式で記録するのか、mp3圧縮で128Kbpsで記録するか、いやいやmp3だけど256Kbosでこだわるか…なんてのがいろいろあって、もう素人にはよくわからなく。へたに数字や方式で分類でき始めたがゆえに、ややこしすぎて“普通の人”には理解不能で見えなくなってしまった。

 

 

ここまでは音/音楽について話を進めてきたけれど、画像、映像だっておんなじだ。デジタルカメラが200万画素なのか、1000万画素なのか。なんとなく画素数が大きい、数字が大きければいいように感じるけれど、そればっかりで宣伝するからそっちに目が行く。

 

でも音にしても、画像にしても、必死で「具体的数値で比較できるように」して頑張っているけど、本質はもうそこじゃないでしょ?「いい音」で聞きたいし、「きれいな画像」で見たいだけ。それを数値というので訴える、訴求することが楽だったからそうしてきたんじゃないの?でも、もうそこは通り過ぎたよ。ユーザーは数字なんか理解したくないよ。それが「いい音」か「きれいな画像」か、もしくはもっとほかの、「感情に訴えかける音」か「心揺さぶるような画質」か、さらにもっともっとほかの、「どこでも好きな音を簡単に聞けるように」とか「撮り逃がさないように」とかでしょ?

 

もうそろそろ“数字で争う”のも限界にきている。一部を除いて2000万画素3000万画素のデジカメを欲しがっているとは思えない。音楽も、圧縮方式で競っていたところもあるけれど、一部のオンライン方式がスタンダードを握れば、それが“普通”になる。圧縮方式が理解したいんじゃなく、音楽が聞きたいだけだ。

 

すでにPCにおいては、一時はCPUのクロック数で競争していたけれど、今ではクロック数を気にしてPCを買っている人はほとんど見ない。その代わりに、ユーザーが何を気にしてPCを購入しているのか、ということこそ、本当に求められている事。

 

 

はじめは見えないものが見えるようになり、そして見えているものがデジタル化によってすべてデジタルの集積度に取り込まれて理解しなければ見えなくなる。

 

人は、デジタルの意味をわざわざ理解したいわけではない世界、に住んでいる。