ユニーク?

テレビなんかを見ていると、クイズ番組に限らず、疑問や問題が投げかけられることがある。視聴者は興味を持ち、解を考える。テレビ局はテレビ局で、視聴者を引っ張って引っ張って…でCM明けにやっと、その回答を提示したりする。

ポンッと膝を叩きたくなるような解も確かにある。正直つまらない解もある。

ま解の品質は置いておくとして、ひとつ陥りやすいのは、それが唯一の答えなのかどうか。

 

漢字の読み書きのテストなら、確かに正解は一つかもしれない。が、そうではない場合、本当に他の答えはないのか?提示された答えはそれだけなのか?

 

良く練られているクイズ番組の場合、複数回答がありうることを説明するものもある。これは番組としてきちんと作られている証でもあるだろう。しかし昨今は、特番でもない限りそこまで予算がかけられない場合も少なくない。解ける事をしめせば、はい次ということもしばしば。

 

そしてついつい信じてしまいがちになる、与えられた答えが唯一絶対の解であるように。あたかも他には解はない、他の解は間違いであるかのように勘違いしてしまいそうになる。

 

 

でも世の中は、そうではない。解が一つしかないということはほとんどない。違う言い方をすれば、唯一の解しか存在しない課題というのは、社会生活を営む場合において、めったに出会わない。

とするなら、たいていの場合において、他の答えというのもあり得る。それは、最初に思いついた解が100点の解だと仮定すれば、二つ目に思いつくのは90点の解かもしれない、三つめは70点の解かもしれない。しかし“不正解”ではなく、それもひとつの解。そして、誰に100点なのか、誰が90点なのかが微妙に変化する解。

 

裁判という制度があるというのは、極論すれば、原告側が考える解と被告側が考える解に違いがあるからこそ必要になること。双方の思いをどちらがどのくらいお得に解決するかの線引きをするために必要な仕組みだ。

多くの場合、こんな面倒な手続きを踏まずとも、双方の常識的理解の上から解を導き出すことが多い。場合によっては力関係で解決されることもある。けれどそうでないことがあるからこそ、その解では納得できないという手段も用意されている。

 

解は一つではない。複数の解が存在する。それはだれにとってのより都合の良い解なのか、その解の意味は何を含んでいるのか、答えが一つでないということの意味をかみしめる。