褒め方叱り方

人の褒め方なんていうのは、いつ習うんだろう?リーダーや管理職になると、うまく褒めることとうまく叱ることがキーポイントになったりするんだが。

 

幼稚園児ですら、大人から見て気の利いた褒め言葉を出す子がいる場面を見たことを思い出すことを考えると、やっぱり親や身近な周りの大人が「手本」なんだろうな。

 

うまく褒めることができる子は、褒めた子供からはもちろん、まわりの大人からもうまく扱われる。いったんこうした歯車が回りだすと、いわゆる「正のスパイラル」でその子が伸びていく動きがまわりだす。褒めることで褒められる。褒めることでいい思いをする。だからもっと褒める。

 

 

一方、叱り方はなかなか身に付かない。それは、その「叱られた意味」が噛みしめられて初めて、「あぁ、だから叱られているんだ、ありがたい…」と意味が分かるからだ。なかなか子供のころには、そんな深いところにまで思いが至らない。自分の行いや考えが悪かったということをいかに反省するかに焦点があたり、俯瞰した自分や叱っている人を、客体として見つめることは難しい。

 

だが、だとすれば、どこかのタイミングで「叱られている意味」を理解することを促していかなければならない。教育者ではないのでどのタイミングが良いのかなど学んだ事がないけれど、なんとなく思春期、中学生あたりが切り替わりの時期になるのではないか?という気がしている。考えることができる時期、客観化できる時期。

そうした「良い叱り方」をする大人が周りにいれば、褒め方同様に叱り方も学べる子供になるんじゃないだろうか?

 

でも、そんな「叱り方がうまい人」は少ない気がしているのは、ずっとずっと昔から、「叱り方がうまい人」というのはとても希少価値があったんだろうな。

いや、叱り方に限らず、考え方を適切な時期に学ばせてくれる人に出会った人とそうでない人の、その後の伸びの違いの大きさに愕然としたりする。

 

 

どうして「褒められた」のかどうして「叱られた」、どちらにしても現象ではなく、理由や理屈を理解しなければ応用は効かない。褒めるにしても叱るにしても、褒められた理由、叱られた理由がくっついてこそ意味があること。みんな理由が知りたい。どんな時も、どんな現象も。

良い大人、伸ばしてくれる大人に巡り合えるのは運だけなのだろうか?もっと良い大人を増やすにはどうすればいいんだろう。