一糸乱れぬ

今「洋楽」なんていう言い方はしないのかな。海外からの音楽がまだまだ別ジャンルで珍しかった時代。そしてその先駆けの一端として、ビデオクリップという手法が光を浴び始めたころ。

日本ではまだ、歌手のうしろでバックダンサーがちらちら踊っているというのが普通だった時期に、海外のそうしたビデオクリップから、ある種の衝撃を受けたことがある。いや、どの海外クリップでも、ということではないな。具体的にはマイケル・ジャクソンのそれ、だ。

 

今ならば、マイケルが亡くなった後にできた映画「This is it」を見れば、その雰囲気が分かるかもしれない。映像を言葉で表現するのはかなり無理があるのだが、マイケルのそれは、その映像の中のメンバーの動きが、すべてコントロールされているのだ。

全員で動くときには全員で、同じ動き、同じ角度、同じアクションが、まるで機械のように揃って踊る。当時の日本のたるいバックダンサーの踊りを見慣れている目には、本当に新鮮で、どれほどの努力や訓練がそれを実現させているのかということを想像すると、リスペクトせずにはいられなくなるくらいに。

 

 

全員が一糸乱れずに動く。チームでの成果/結果を残す場合には、重要なキーワードになる。全員が目に見える範囲で動いている行動のみではない場合、いつどのタイミングでどのようなアクションを取り、その結果を受けて他のチームが次のアクションを取る。こんな決め事が成り立つのは、決められたことを決められた通りにきっちりと行うこと、計画通りに実施できる力があることに尽きる。

 

そんな“歯車”のように組み込まれた作業は嫌だ。俺は目立ちたい/俺の成果をアピールしたい!という者もいる。だけれどそれは、目立つことによってチームの動きが乱れたり、そもそもチームとしての成果が出せなくなったりすることもありえる。なにが目的だったのか、チームでの成果なのか、自分が目立つことなのか、よく考えればわかることであるはずなのに、時にそれらが忘れられることがある。個人の目的とチームの目的は一致しているのか?背反していないか?邪魔になっていないか?

往々にして目立ってはならない、抜け駆けしてはならないシーンがある。

 

それとは(捉えようによっては)真逆の支持を出されるように感じることがある。ナンバーワンになれとか、オンリーワンになれとか。自分を高め、個人の能力を上げよとせっつかれる。

だが、少し考えればわかるはずだが、チームとして動くことと、個人の能力を高めることは、決して背反するだけのものではない。どちらも両立できるものであるにもかかわらず、それを理解し間違えると、チーム力は崩壊するわ、個人の能力もあがらずにあきらめるわと、組織として崩壊しかねない。それらをどうとらえるか?どう盛り込むか?個人もチームもどう成り立たせるのか?

目立つことのみが命、ではない。個人の能力を伸ばすということがゆがんで受け止められてしまっていることで、個人で目立とうとする行為が間違った形であちこちで顕在化していないだろうか。

 

「優れた個人が集まって、優れたチームになれば、それは優れた成果が出せる」

のは想像に難くない。しかし

「優れた個人が集まっても、優れたチームに成れなければ、優れた成果が出せない」

ことは明確だ。むしろ

「普通の個人が集まって、優れたチームに成れれば、そんなチームよりもより良い成果を出すこと」

は、普通に期待できる。

一糸乱れぬチーム力、案外バカにしたものではない。チームで成功することで個人も成長する。チームの成果が個人へのよきフィードバックにもつながる。チームで何人か、何十人かで少しずつ成功することで、組織としての力の底上げにもつながる。

 

間違った形でチーム力を失っていることこそ、個人力だけを重視することこそが、大きな間違いじゃないかと、ここ何年か、ずっと考えている。