中止の重み

経済全体が発展している中では、そうそう儲けが出ないことでも、そこに資金投下をして基礎技術や基礎研究を継続していくことができていた。それは企業としての調子はいまいちだったとしても、経済“全体”の波に乗れていたがゆえの調子のいい状態のおこぼれにあずかることができたであろうから。なので、その波の上にいるうちに次の当たりの技術を引けば、それでさらに大波に乗れた。

きっと“打率”でいえば、いったいどのくらい当たっていたのかは、企業によってさまざまだろう。とはいえ、3割も当っていた企業というのはそうそうはなかったのではないだろうか。というよりも、あちこちでちょっとずつ当たることで、全体で波が小さくなるのが妨げられ、大波であり続けられた。

だから、一企業の中でなかなか形にならずとも、何らかの形で商品に、サービスに、フィードバックしてなんとか食いつなぐこともできた。そうすることで、少しでも利潤追求に貢献した…という形でなんとかなった。昔ならそうして形を作って、細々とでも研究を続けさせていた。

 

でもそんな会社も、ここ10年20年に至るデフレ経済下、経済の波全体が縮む中においてはそれも限界に近づく。そもそも波が大きくない/来ていないのだから当たらないモノには投資できない。だからついつい投資金額も小さくなりがちになる。リスクを背負えない。とすると、当たったとしても次に起きる波が小さかったりする。なかなか連鎖が起きるような勢いづくものにならない。

 

結果として、一度は商品化したもののその後の商品ラインナップが思ったほど続けられず、泣く泣く打ち切る商品や技術が出てくる。

 

 

そうして「打ち切る」事が決められ、事業部や、研究が中止、停止されることの重みは大変大きい。よほど慎重に止めるとか、止め方もデータや設備、そしてそれにかかわっていた人やそこにあったノウハウを丁寧に丁寧に収集しておくことを計画しておかなければ、そこにあった技術や知識は、あっという間に雲散霧消してしまう。

 

物理的設備、データがあったとしても、それの読み方、道具の使い方、ちょっとしたコツが含まれている価値は計り知れない。同じ試料、同じデータがあったとしても、以前と全く同じアウトプットを出すというのは、よほど整備された資料、情報などがないと、不可能にも近い。

また、そこにあった人のつながり、知恵のつながり、ネットワークとして細々とでも稼動し続けていたことによる“延命措置”が切れた瞬間に、人は社内に、社外に散る。その人たちは、たとえその後その中止されたプロジェクトが復活したとしても、すでにその他の仕事に組み入れられ、それまでの形に復活させるのは至難の業。

 

その技術を停止させるということは、データや情報としては存在していたとしても、生きた人のネットワークで動いていたところは、死滅する。

「川」がずっと水が流れ続けているから川であるように、組織やチームが、いかに小さくともずっと運営され続けていることで、首の皮一枚で貴重な技術が残り続けること、伝承され続けることの意味は、とても大きい。川であったところを、水をせき止めて形だけを保存して、何年か後に再び川にしようと思っても、迂回した川の流れだけでなく、周りの植生、微生物、小動物などの変化した生活圏は、元には戻らない。

 

技術伝承、ノウハウ継承、明文化するのみならず、口伝、体得など、よほど必死で取り組んでいかなければ、いっきに雪崩を打って瓦解してしまう恐怖を覚える。

技術のみならず、良いもの、残しておきたいものというのは、努力しつづけていなければ失われ、すたれる。細々と続けなければなくなってしまう。そして、ふと気が付いたときには、元には戻らなくなっていることに愕然とする。