無料というフェロモン

あるご年配の女性から相談を受ける。

ネットで出回っている無料の楽譜を手に入れたいのだが、安全かどうかが分からないというのだ。

 

いわゆる一般的なあやうさ、無料であるにもかかわらず、クレジットカード番号や住所や名前を問われるのであれば、危なそうですねという話を返してみる。いろいろと周辺情報等々もふくめて話をしてみるのだが、どうやら著作権とか、コピーライトという意識はなさそうだ。

フェアトレード的な最適価格をイメージしているようでもない。有料で楽譜がダウンロードできるようなサイトで、一つの楽譜が数百円程度な物でも

「…でもやっぱり無料が…」

という。

 

決して家計が厳しい状況の方ではない。すでに悠々自適世代であって、贅沢するわけではないだろうが、普通に暮らしていくには何の苦労もないであろうご家庭だ。

 

 

 

すでに音楽業界ではCDの売り上げはガクンと落ちて、ライブの価値が上がっているという。オンラインでの楽曲売りの台頭もあると思うけれど、そもそも音に限らず「記録されたもの」の価値が下がってきているのかもしれない。まぁ、当然予想されていたことではあるのだけれど。

 

文字を皮切りに、音も、静止画も、動画も、記録が可能になった。そして、単なる記録のみならず、複製が簡単に作れるようにもなった。記録可能になったものは、誰がやるのかはさまざまだけれど、デジタル化が可能になった。

こうしてデジタル化されることにより、取り扱いが格段に便利に。と同時に、権利で包むことが格段に難しく、取り扱いが面倒になることもあり、それが嫌われるという側面が如実に出始めた。

 

結果、無料であると同時に、取り扱いが楽になるという、ユーザーからすると願ったりかなったりの状況が広がる。それらを使いたい人にとってはこの上ない状況が広がっている。クリエイターにとっては頭の痛い、食い扶持すら危うくなる状況が生じ始める。

 

作り出す者、生み出す者に対するリスペクトよりも、使う側の立場、自分の使い勝手が勝る時代。これだけデフレが蔓延する国であるからこその状況なのか、いやもしかするとこうしたデジタル化、無料万歳であることもデフレ要因のひとつなのか。

もしも、景気が上向いている状況であったのなら、もっとデジタルコンテンツに対してでも、じゃんじゃんお金を払う心構えができていたのか。

 

時代とタイミングとプロモーションと。

フェロモンという強力な力には、だれもあらがえないのかもしれない。

こうして人気のあるモノほど、どんどんと無料に近づいていく。デジタルデモクラシーが世界を席巻していくように見えて、その実は…。