リラックスして使えること

本を読むとき。図書館のような静かな環境で、きっちりと椅子に腰かけて読む、というスタイル“以外”に許されないとしたらどうだろう?

 

家で床に寝転がって読みたい。ソファーにだらりと座って眺めたい。

要するに、本や雑誌という媒体は、それを読む姿勢やスタイルまで強制することはないし、当然できもしない。読むものだって、小説もあればビジネス書、漫画に雑誌、教科書それらすべての読み物を、一つのスタイルに縛る事なんて馬鹿げてる、なんてのはわざわざ言うまでもない。

でももし「書籍」というものの大きさが、あそこまで小さく、軽く、扱いやすくなっていなかったら、それはその形によって、読むスタイルが規定されてしまっていたかもしれない。

 

パソコン:キーボード付きのいわゆるデスクトップと言われるものは、その筐体の大きさからして、机に向かって椅子に座り、キーボードをたたき、マウスを操作しなければ使えないものだ。その大きさと形が、使う形を規定してきた。

ノートパソコンになり、いわゆるパソコンが設置されたデスク“以外”のところでも使えるようにはなったものの、まだ、その液晶画面やキーボード、マウスの代わりのトラックパッドの使い勝手からすると、ソファーにだらりと座ることもあるけれど、まだまだ机に向かうことの方が多いだろう。

 

 

ところがタブレットときたら…。

こいつはほとんどその使い方が規定されない。ソファーに深々と座り、指でツンツンしているだけで、ネットをさまようことが可能だ。バッテリーも数時間くらいはへっちゃら。左手で「板」一枚をつかみ、右手でツンツンするだけ。それだけだ。

ベッドや布団に入った後に、それでもツンツンしている人もいることだろう。ノートパソコンでもさすがにそれはできないだろうし、デスクトップパソコンなど言うまでもない。

形と大きさが、リラックスしてそれを使えることを許容した。

 

でもだからと言って、時計サイズの画面がうれしいかどうかは、とっても懐疑的だったりする。画面のサイズはある程度以上ないと。というのが私の見解。いや、そのサイズで見る情報をどう規定するか?によると思うけれど、日本企業にはできそうにないな。あれもこれも欲張った瞬間に破綻。いかに捨てるか、という世界なんだから。

だって、リラックスしてやりたいことなんて、そんなに多くはないのだから。