分解されてきた

昔はみんなで協力しないと生きていけなかった。仕事も生活も、もちろん食料調達も。日々の家仕事だって、分担して担当しないと生きていけなかった。

 

その形を企業活動という枠に持ち込んだ。ある目的、社会に便利な仕組みを提供する、便利な装置を提供するという目標を掲げ、人々が効率的に動き出した。でも一人じゃできない。だから個々に協力しながら、互いの利点を持ち寄って、互いの欠点を補い合って活動してきた。

 

だんだん組織の力が強くなり、そこに所属する個人の力が相対的に弱くなる。だから個々の権利も対等に張り合えるような組合活動もあった。個は小さい、弱い。だからその権利を守る活動が必要で、それは個でバラバラで戦っていては勝ち取れなかった。

 

時代は隆盛を極めていた。組織から見れば個を主張されると効率が悪い。みんな一律に報いるよりは、効率のいい奴にのみ報いれば済む、そのほうがよほどいい。効率が出ていないところ/無駄なところも一緒に対価を引き上げるのは、(近視眼的に見れば)非効率なのだ。

組織は個別に対応する戦略に出た。個々に報いる形を取ろうとする。もちろん、できる者には大目に報いる。ただし、できない者にも少しは報いよう。時代が右肩上がりの時にはそれが可能だった。

そんな活動が長らく続くことで、個が個の利益を追求する活動はバラバラになった。昔から存在する「スト権」は、事実上形骸化する。自ら勝ち取るというよりも、与えられたものを受けるか受けないか、ただそれだけの組織に成り下がる。当然、組織化率も下がる。思ったような活動がなされていないからだ。

 

会社活動が強くなりすぎたのか、いや、個の権利を主張できる活動がだんだんと弱くなりすぎたのか。

でも振り子は必ず戻ってくる。右に振り切れれば、やがて左に振れ始めるしかない。

社会が持たなくなってきていれば、不満は貯まる。個にストレスがたまる。それが許容されないレベルに至れば、社会活動そのものが破壊されることもある。

 

誰かだけが、ある組織だけが、得をする活動を「ずっと」行い続けることはできない。何かで得を取るなら、他の何かで得たものを返す必要がある。

企業だけが得をする社会、個人だけが損をする社会は成り立たない。

逆に、個人だけが得をし、企業は損をする社会も成り立たない。

どこにバランスポイントを見極めるのか、それを誰がデザインするのか。企業家か、政治家か。個人だって可能だ。ただし分断されているだけでは力は出ない。力を集めれば、ある目的に沿って集まれば、それは大きな力になりえる。

そのためには協力し合う必要がある。

そのためには目的を共有しあう必要がある。

そのためにはコミュニケーションを取る必要がある。

閉じこもっていてはいけない。

誰かが自分に向かってくるのを待っているだけでは遅い。

 

久しぶりに雪。