創造性の戦い

東大が、人工知能を使って大学入試を解く挑戦をしているのをご存知の方もいらっしゃるだろう。すでにかなりの大学の入学試験を解くことができる、というレベルにまで至っているというのが、どこかのメディアに掲載されていた。

 

IBM人工知能が、アメリカのクイズ番組で勝ち抜いたといった事がニュースになったのもずいぶん前の話。人間の話し言葉を理解して、そこから期待される適切な解答を導き出すというためには、一つ一つのレベルにおいてかなりの技術力がいるであろうことは、想像に難くない。同様に、入試問題を解くということにおいても、いくつものハードルを越えて来た今だからこそ、そういう結果に結びついているんだろう。

 

チェスでコンピュータが人間に勝ったのは20年近く前。最近では、チェスよりも複雑だと言われている将棋においても電脳戦が開催され、人間側がタジタジな状況に追い込まれているのが、面白いイベントの一つとして取り上げられている。

 

それでもまだ、完璧に負けが決まったわけじゃない。すでにコンピュータと人間が対戦することにより、人間側が見落としていた戦略が見直されたり、発見されたりということで、人間同士の戦いのレベルがアップしているというフィードバックも起きている。

 

将棋のように、ある種閉じた空間、システムとして完全な数学的モデルが構築できる小さな世界においてさえ、まだ計算しつくせない状況が起きている。これまでには遭遇していない局面が存在しているということ。

であればなおさら、そもそも数学モデルが打ち立てられないような状況においては、コンピュータには計算しつくせない。ただし、ありそうな状況に絞ることで、人間より早く結果を導くという状況は計算できるかもしれない。しかしそれさえも、ありそうな状況をどのように絞るのかと言う考え方を、まだコンピュータ自身が考え考案し、アルゴリズムとして自ら実装するには至っていない。いわゆる創造性を発揮するからこそ作り上げられる部分。

 

大学入試問題において、すでに記憶レベルを問う問題は、いかに膨大なデータベースを持ち、そこに正確にアクセスし、それらを正しい形態で引き出す技術が向上することで、コンピュータの得意な領域になることは想像に難くない。

ただ、そうして引き出した(事実上無限の)個々の知識を適切に組み合わせたり、反応させたりするセンスが、人に求められている一つの役割。うまい具合に組み合わせられたり、うまい具合に反応させる準備が整ったりすると、今までにない反応や成果が生まれる。

それを「発見」することこそが人の力であり、もしもいったん発見されたら、あとはもしかすると、繰り返し似たような作業を続けることで、コンピュータの方がそこに関しても得意分野としてのっとっていくかもしれない。であればこそ、その発見の価値、創造の価値、創発の価値は尊び、称賛されるべき状況であるはずだ。

もしかするとすぐには裏付けが取れないかもしれない。もしかすると当人でさえ言語化できていないノウハウがあるのかもしれない。けれど実際にできているとするなら、それは他の何物でもなく、本当に価値あることのはず。

歴史上、嘘つきだと言われたり、魔女だ悪魔だとされた現象や反応を、今では普通に使っているなんていうのを上げると枚挙にいとまがないくらい、すぐに結果、結論が正しいと見いだせないモノは少なくない。