苦味、天竺

子供の時にはわからなった味の一つに、苦みがある。

ほろ苦いといううまさ。ビールが飲めるようになるなんてのはそのひとつかもしれない。なんだその不味いのは?と思いつつ大人の真似事で飲み始めたビールも、やがてそれがおいしくなってきたりする。

 

全くえぐみや苦みがない世界では、刺激に欠ける。そうしたサプライズ、驚き、反骨した何かがあるからこそ、「いつもの美味しさ」が冴える。そのギャップがおいしかったり、楽しかったりする。楽しい“だけ”では、おいしい“だけ”では満足できないというか、情報も刺激もインフレするばかりだ。

 

だから、数パーセントのにがみや、仕事における反対意見は必要だ。

もしも全員が何の疑いもなく賛成すると言う事は、それはどこかの視点が抜けていたり、全員が気付いていないことを心配する方がいい。

 
ということは、完璧を目指すのだけれど、永遠に完璧にはたどり着けない/たどり着かない。そのウィークポイントを探し続けなければ、あとは「そこ」を頂点として落ちていくしかない。
 
「天竺」はたどり着こうとして努力するけれど、でも、決してたどり着けないところ。でもそこを目指して旅を続ける。