コンテンツからの解放

昔はテレビを録画するのに、難しい機器の録画設定操作をこなす必要があった。時間とチャンネルと、録画モードを設定する。が、これがメーカーにより操作方法が違ったりして、失敗する人が続出。

ということで、Gコードなんていう手法が広がって、新聞や雑誌にGコードが載っていた時期もあった。

 

だんだんとそうした録画操作方法も洗練されて来て、メディアもテープからハードディスクへと変わってきた。
そして今や、自ら録画する設定をせずとも、過去の録画経緯や、設定したキーワードから、これは見るかもしれないと勝手に録画したり、機器によっては全チャンネル全番組をすべて録画してしまう装置すら出ている。

 

もう放送前にコンテンツを選んで見ようとする必要すらない。面白いということがどこかで評価されたら、その評価を元に、「あとから」録画された放送コンテンツを探せばいいだけだ。

ビデオ録画装置が発明される以前なら、見たいテレビ番組がある際には、「事前に」テレビの前にスタンバイしていなければならなかったころから比べると、隔世の感すらある。
必要な情報、見たい番組は後から見られる。コンテンツに「その時」という時間を縛られることは、基本的になくなった。

見たいと思ったものはすべて見られるようになっている、とも考えられる。「その時」という放送時間には縛られなくなった反面、これまでは見たいと思ったもので見られずにあきらめていたものによって、「見るための時間」といった時間のやりくりに縛られるようになりつつある。

 

コンテンツから解放されるには、自らの欲望をコントロールすることが必要になる。それも結果的に、以前よりもより厳しく。