存在の弊害

解答が必ず存在する問題ばかり解かされる生徒/学生時代。究極は大学入試センター試験のようなマークシート方式か?

ただし大学に入ってから、それも、とくに専門課程に入ると、学ぶ内容は劇的に変わる。そこでは、答えが有るか無いかわからない物にむかっていかねばならないことがほとんど。自分で問いを立て、それになんらかの答えを出すことが求められる。その訓練の場。
 
今、「問いを立てる訓練」はどこでなされているんだろうか?そもそも「答えがないかもしれないコト/モノに向かっていくこと」が、無意味だととらえられたりしていないだろうか?
 
「答えを出す事」に意味があるのは言うまでもないが、出す事にばかり力をかけて、その解き方、考え方は放り出している事、無頓着である場面が多すぎたりしないだろうか?
本当ならその手法は、こっちでも使える、そっちでも使える。にもかかわらず、大半の人は「そうして得られた結果」にのみ注目しているだけで、その解の導き方、手法の使い方にはあまり興味を抱かない。
でもアイデアと言うのは、「そうした手法はこっちでも使える」とか「全然違うところでは当たり前にやっていたやり方を、今まで使われていなかったこちらで使うことにより大きな成果を生む」なんて事が少なくない。いや、それはやり方に注目していなかったからそういうことになるんじゃないだろうか。
 
すぐに「で、答えは?」「正解は?」と言われる事が少なくない。が、世間で実際に出会う問題に、全く同じ問題はまずありえない。だから「正解」を知るのではなく、「正解の導き方」を知らなければ、その効能は薄いはずなんだ。
 
「正解が存在する」という前提に立ち、「正解を求める事」にばかり価値が置かれていることがあるけれど、そうではなく、不正解かもしれないけれど考え方を考えるのは重要な訓練。考えることこそが価値のはずで、そしてその機会を与えられることは実はそう多くないことに気付くべきじゃないだろうか?