波に乗る

日本人は、何かコメントを求められても明確に「自分の意見」を答えなかったり、その場を乱さないように配慮したり。

嫌われないように、その場を荒らさないように。
要するに、当たり障りのないコメントで答えることがほとんどで。
 
でも、そういう対処が染み付いてしまうことで、結局、当たり障りのないコメントを出せばいい、深く考える必要がない。であるがゆえに、しっかり考えなくていい、考える必要がないことに。
 
 
「考えていても話さない」というのと、「考えていなくて話せない」と言うのは、現象的には同じに見えて、事の本質は全く違う。その一瞬だけを切り取れば同じふるまいに見えたとしても、その後の言動、行動には何らかの違いがあって当然。
いや、だからと言って、その場に何の配慮もなく、いわゆる空気を読まずに何を発現してもいいというのも少し違うだろう。その場の配慮、心配りをしたうえで、それでも押さえておくべきところは抑えるべく考えておかなければいけない。
楽な対処というのは、世間のパターンに乗ればいい。こういう時にはどのように反応するのか、そのパターンを知ることは、生活を楽にする。考えずともその場に乗っていけるから。だがそうすることで生み出した余裕を、何に使うかが問われている。より考えなければならないのではないか?より考慮すべきことを考慮し、配慮すべきことに気を配らねばならないのではないか?
 
べつに日々の事に限らない。就活だって同じだ。世間のパターンを学習することで就活の「波」に乗った上で、さて、それ以上に自分の何をどうアピールするのか?どう理解してもらうのか?そこに頭を使わなければならないはずだ。
何のためにその「楽」を選んだのか。どこにその分のエネルギーを回すべきか。