合理化 効率化

  合理化 ≠ 効率化 

だと思っている。

もちろん、場合によっては

  合理化 = 効率化

の場合もあるだろう。だがそれは双方の意識があるレベルで一致する必要がある。

 

まず「合理化」だが、さて、「どのポイントにおいて」合理化を考えるかだ。すべてにおいて合理化を考えることが可能…であるならば、それに越したことはないし、それすなわち効率化にもつながる可能性は高いだろう。

だが、まずほとんどの場合において、「どこかのポイントで合理化」を考えると、「別のポイントでの不合理」が出ることがある。

 

社会人になって仕事を回す際によく言及されるのは、言わずと知れたQCD。それは、品質、コスト、スケジュールを表す英単語の頭文字からきた言葉。これらを確保しながら仕事をまわせよ…とは言いながら、局所的合理性のみに視点を置くと、すべてを満足することはまず無理な状況で。でもなんとかいろいろやりくりして回してやり遂げる。

 

結果的に、どう合理的に持っていきたいのか全体的に判断しなければ、局所的、部分的に効率を上げたりしたところでバランスが取れなくなるのは良くある話。そのバランスを取ることこそが仕事を進めるうえで求められ、場合によってはその按分を任されたり、判断を迫られたりする。

部分的なものが求められているのではなく、全体俯瞰が必要で。バランス感覚が必要。この感覚、バランスを、上司やクライアントのみならず、多くのステークホルダーと共有することの重要性。

 

とはいえ、「バランスする」としたって、いろんなバランスのとり方が存在する。そのバランスのとり方をどうとらえているのか、どうでもいいからバランスが取れればいいのか、いや、ある程度の割合としては理想の値を持っているのか、そこすらも明確でなかったり、伝わっていなかったり。

 

それが伝えていると思っている人、伝えられていないと思っている人、その双方の間で、伝えたつもり、伝わっていないはずという事自体が情報交換できているか?

合理化とか効率化とか、字ヅラはどうでもいいのだ。所詮、本質の多くの部分で分かり合えていないのだ、きっと。

本質のために動かねば。