価値を正しく判断することが求められているんだろうが

少し以前、プロに無償でモノを頼むな、というBlogが吹き荒れた。

確かにそうだろう。プロとしてお金をもらうためにその技術を身につけて、それで仕事を成り立たせてきた。
 
だが例えばその技術を、自分の家族に頼まれたら、無償でやることはないだろうか?家族からお金を取ろうと思わない。これもある意味当然だろう。さらに、この人と信頼を繋ぎたいと思えば、自ら無償で手を差し伸べることもあるはずだ。これは無償で技術を提供することで、関係性と言う対価を求めているからこそ行う事。まぁ良くある話だ。
もう一つ、本人自らすすんで協力したい/手を貸したい、という思いがあって手を差し伸べる、いわゆるボランティアというやつ。ただしここで重要なのは、「それは当人からの意思で行うものであり、何ら外側から強制されない」はずの物だ。
 
技術を提供してほしい、手を貸してほしい。
こういう声はあちこちにある。そしていくつかの場面ではお金を出しますと明言しているところもある。
が、ただ、お金を出すと明言していたとしても、たいていの場合は薄謝であることが多い。要するに「形だけ」に近い。対価ではないのだ。だから「あなたの技術は無料ではないことは知っていますよ。でも、正当な対価をお支払いすることはできないんです」といった言い訳であることが少なくない。
 
ボランティア精神に頼る、といえば聞こえがいいが、無償で、薄謝でお願いをすることでコストセーブに頼るからこういうことになっていないか?もっと言えば、それはお願いをする自分の側の事情、資金事情しか頭にないのではないか?本当に相手のことを考えた瞬間に、自分と立場を入れ替えた瞬間に、無償で、とは言いにくくなるはずなのだ。
 
それが義務ならば別かもしれない。だがそうでないなら、そこに相手を思う気持ちが感じられなければ、到底無料では応じられないだろうし、頼めない。相手をどのように見ているのか、価値を値踏みしているのかが見られているということ。
 
 
これを「チョットだけなら」という事でごまかしてきたのが、たぶんこれまでに多くあったことかもしれない。だが、そういう風に「価値判断を先延ばし」にしたりして、「つけこむ」もしくはそこを切り口にして「義務化」してくる人が増えているからこその、昨今の反発なのではないかと思う。
 
もっと端的に言えば、社会全体として余裕がないのだろう。それは「頼む方」も、「頼まれる方」も。だからこそ無償で応じてもらいたいし、応じる方は無償ではやりきれない。とは言え、きちんとその人、その技術、その行動を認めてもらったうえで対峙してくれるなら、最後には「しょうがない、手伝うよ」ということだってまだまだあり得ると思う。それが、「最初から無償で」という「前提」となっていることで、「それはスジが違うよね。」ということとなって断られている場合は多いんじゃないだろうか?
 
これだけ効率化、コストセーブが必須になってきた世界。もう無償でお願いすることは、大きな意味では無理なんじゃないだろうか。いや、決して喜ばしいとは思わない、が、社会全体がそういう形で絞り込んでいるのだ。個々人で取っていたリスクマージンすべてを取り上げられたら、協力すらできなくなる。
 
直接的見返りだけ、とは言わないが、きちんと相手に報いる何かの形がなければ、取引が成り立たない世界になった気がする。そしてそれは、曖昧では許されなくなるほどに、そこすら厳しくなりつつある昨今。嬉しいかそうでないかは別にして。
 
弱肉強食ではなかったはずの人間界が、弱肉強食でなければならないほど、自分たちが作ったシステムに蝕まれているような気がしている。強いものだけが生き残るというシステムだけではなかったから強くなってきたはずだと思っていたのだけれど。
頼りすぎ、甘えすぎ、どちらも「過ぎる」というのにどうやって適量を見出せばいいのだろう。