理解できる楽しみ

本を読んだり、映画を見たりすると、時に驚きの展開や、今までに思ったことがない場面やシーンと出会うことがある。それによって新たな知見がえられたり、気づいていなかった視点を提供されたことで、驚き、場合によっては感動さえ覚える。

 
だが、誰もがそうだとは言えない。場合によってはわけがわからないと評価される事もある。
 
モノを読み解いたり、理解したりするためにも、そのベースとなる知識が必要になる。何を意味するのか?が分かるための前提とでも言えばいいだろうか。
分かりやすいのは、たとえば海外の風習。アメリカ映画で、アメリカ人においては共通認識がある事をいじったジョークが展開して、アメリカ人なら誰もがまず間違いなく理解できることでも、その風習や共通ベースの認識がない日本人には、そもそも意味が分からなかったり。
 
こうした文化に根差すものはしょうがないことがあるけれど、学ぶことにより理解できる範囲が広がったり、より深く認識できたりすることは楽しい。…と思っている。
ちょっと引いて書いたのは、実は、それが楽しいと思えない人もいるようだからだ。
そういう人たちの多くは、単に、「見ていて楽しい」「面白い」といった表面的理解が楽しいことが多いようだ。だが、考えてみると面白かったり、より深いところで、あぁ!そういうことか!と腑に落ちることにぶつかった瞬間に、とても感じ入ったりする。
 
とは言え、映画でも小説でもドラマでも、より多くに受けいれてもらおうと思うと、どうしてもわかりやすい理解、わかりやすい感動、わかりやすい勇気みたいなものに引っ張られる。
 
でも、結果としてそういうもの「ばかり」が広まることで、結局そこから人は飽きたり、離れたりしていく。理解できる楽しみを知る機会が減る。
こうしたコンテンツの作り手が減ることこそが、コンテンツの危機でもあり、クリエイター不在の危機なんじゃないだろうか。
価値ある楽しみの価値を創り出せることに、腹を据えて取り掛かれるかどうか。