そのコミュニティーは生きていますか?

人間はいろんな欲求があるらしいけれど、そのひとつとして、誰かに認められたいという欲求が働くらしい。

たとえば会社に入れば、当然ながら、それなりに仕事を与えられ、成果が求められる。と言う意味で、何らか成果を出せ、その成果を認める形で給与が支払われたりする。

ところが、学校などにおいて「認められる」というのは結構難しく、先生から褒められる、仲間から一目置かれるという行為が、うまいタイミングで起きるか起きないかで、その子の自信、ひいては人生が大きく影響を受けたりする。

 

大人であっても仕事をやめたり、退職したり、そもそも働いていなかったりすると、そのよりどころを「どこかに」求めたくなる。どこかのカルチャースクール、近所の趣味のサークル。もしくは自分で仕事を起す人もいれば、それが病院の待合室になっている人もいるのかもしれない。

 

ということで、意識している/いないにかかわらず「何か」のよりどころを探すわけだが、そうした属したいコミュニティーははたして「生きている」だろうか?それを商売にしているようなカルチャースクールなどは、当然商売として継続し続けるだろうけれど、お金を掛けたくない人もいる。そんなコミュニティー、それは「誰かが運営してくれているところに、私も属したい、入れてほしい」と、単純に思っている人が多くないだろうか?

 

そもそも、お金をほとんどかけたくない、でも、趣味の楽しい集まりなど、運営継続している事自体がとても難しい事。にもかかわらず、自分がその運営側の意識、負担を持たず、「誰かが運営してくれているところに、入りたい」といった要望は、少なくないんじゃないだろうか?何らかの運営費がかかる、当事者意識がない人が、できるだけ安く、できれば無料で、そうしたコミュニティに参加したい。高いお金は払えない、でも承認してほしい…。

 

別にこれに限らないが、自助努力が大切…とか、公には頼れない社会に…とか言い始めている昨今。けれど、そもそもその根底となる、「自分から動かなければ」という意識がほぼ全く根づいていないところでは、結果的に誰かに負担がかかりすぎたり、負荷をかけすぎたりするに過ぎないのではないか。別に大金が必要なわけではないけれど、「動く」「運営する」にはお金がかかるもの。いつまでも無償で、何でも無料で、に慣らされ過ぎると、その意識自体が大きな崩壊への火種となりかねない気がする。

 

「お互い様」という意識が薄れ、皆の家計が厳しくなり、少しでも安く、できれば何でも無料でが横行するけれど、そうできないところ、本当はどこかで費用が負担されている意識を失うことが何かの崩壊を引き起こしていないか。

日本だけではないかもしれないけれど。