意味を学びたい衝動

sin, cos, tanを学ぶ必要がどこにあるのか?なんて暴言?放言が話題になる昨今。

 

さて、ではsin, cosでもいい、微分積分でもいい、ベクトルでもいい。いったい何のために学ぶのか?をどこかで学んだ人、いるだろうか?

よほど恵まれた「先生」に巡り合えたり、説明してくれる人に出会えた人、それはお金に換算しがたいとても幸運な人だ。(もちろん、これは数学に限らず、理科でも歴史でも地理でも、どんな知識、教養分野でも構わないのだが。)

 

いわゆる理系に進んだ人の何人かは、当人の好き嫌い問わず、こうした「道具」を使わざるを得なくなったりしただろう。理学にせよ、工学にせよ、そうした学問の「言葉」のひとつが数学。

否応なくそれらを使い始めると、何となく使い方が分かるところも、まさに「言葉」と同じ。必要に迫られて使わざるを得なくなる。で、なんとなく理解できたりする。

 

どうして学ぶのか?どこで使うのか?それはそもそもの目的、それがあった上で、使えるようになりましょう、理解できるようになりましょう、のはず。(いや、けっこうこれらの多くは、目的に沿って技術として生み出されてきたところもあるのだから)

にもかかわらず、学校ではsin, cosをまず教える。微分積分を教える。何のために使うのかは(良くできた教師に当たれば、面白おかしく伝えてくれるかもしれないが)普通は分からず、教えられず、単に公式を暗記するのみ。記号の羅列、文字の羅列、暗記する対象でしかなかったりする。それでは使えない、使う動機がどこにも無い。

 

何のために使うのかが分からない道具など、誰も使い方を学びたくない。それがどんな道具であれ、使うことで便利になる、理解が深まるなどと言うことが分かっていれば、あぁなるほど!となるはずなのに、それにつながらないから習う意味、公式が無意味な文字列として語られる。

 

数学に限らず、道具の「意味」「意義」を学ぶ場はどこなのか?物理的な道具いがいに、思考の道具ももちろんのこと。

 


話は変わるが、一昔まえに流行った「分かるExcel」といったMicrosoft Officeを使うための本のシリーズが何系統化出ていたのを覚えている人がいるだろうか。あれは、「会社の中で、MS Officeくらい使えないとこれからの社会生活たいへんだよ」という目的を達するために、まずは取り掛かれるという即効性の本として、爆発的に売れた。目的があちらからやってきたから、それを使えるようになりたい、そのための指南本が出たわけだ。

 

もしこうした目的なく、社会人すべてに、「はい、Excelのマクロを覚えなさい」といったところで、誰も覚えない、使いたくないモノになるのは目に見えている。 

 

そう考えると、必要になってから学べばいい、というのはあながち間違いではない。それは数学に限らず、英語だってそうだろう。ただし、たとえば今皆さんが手を付けている仕事の延長線上に、数学が必要だったり、英語が必要になったりすることがすでに見えているとするなら、もしくは、すぐにではないかもしれないけれど、近い将来にいくらか可能性があるのなら、それは学んでおく必要があるということ。必要になってから学ぶ、という時間的余裕は与えられていない。だから、先に学んでおく。そのための若いころにおける学習。だから世間は最近「TOEIC」ばやりなわけだが、さて、本当にみんな、そんなに英語が必要なのかなぁ?

 

とにかくあまりにその意味、目的を教わる機会が少なすぎるのではないか。中身を理解する一助としても、その意味、目的、どうやって使われるのか?こうしたことがもう少し教えられる機会があってもいいんじゃないだろうかと思う。

 

それは、どんなスキル、技術においても。

すっきり整理され、その目的を理解したうえで、使い方を教えてくれる人がいると、いかに理解がスムーズで、本質を外さず、忘れにくいか。無駄な文字列を、意味なく覚える努力よりも、よほど小さなエネルギーで、効率よく整理できるはずなのにね。