苦味は美味しいですか?

二十歳になってやってみることの一つが、酒を飲むこと。

ビールの味もよく分からずに飲んでみる。まずは飲んでみる。おいしい云々は多分関係なくて、形から入るってやつかな。
自分の経験から言うと、何この味?って感じ。苦い?ふーん。これが大人の味かと。
そのうち慣れてきて、本当にビールが美味しくなる。
 
コーヒーも、子供にとっては苦い飲み物。だから最初は、ミルクたっぷり、砂糖たっぷり。
だけどコーヒーも、その苦味が美味しくなってきたりもする。
料理でも、苦味の美味しい食材はある。ゴーヤーなどはそのひとつだろう。
 
もし、苦味という味がなく、なんでもかんでも甘いと辛いだけだったら。みんな味に飽きがくるんじゃないだろうか。「苦い」もあるから、相対的に、他の味も美味しく感じる。ギャップが必要なんだ。それもできれば一つの軸の右と左ではなく、もっと広がりのある。白か黒ではない評価基準の広がり。
 
 
最近のWebの記事やBlog、その他の映像やニュースなども、ちょっと過激なことを書いたり、ピリリと風刺が効いていたり、何か誰かを揶揄するものは、全部十把一絡げに、「でどうなのさ、これ?」と炎上騒ぎに。
でももし、馴れ合い、まぁまぁばかりの記事しかなかったら、平和ボケのニュースばかりなら、本当にそれで嬉しいんだろうか?絶対に誰も傷つけない、傷つかない記事ばかりの世の中を目指せるんだろうか?
 
どうなりたいのか、そもそもの理想もないから、結論などないのだけれど、フワフワの形のない夢を追っているだけで、どこに向かいたいんだろう、日本人は?と思う時がある。一本線の右か左か、白か黒か。こういう価値観でしか捉えられない、イメージできないからそもそもの議論そのものが広がらない、深まらない。多様な価値観、多様な基準をみとめなければ、ただ単に白黒に分けるのみ。そしてさらに、そのそれぞれの基準値の割合をどうするか?という理想方向を見据えなければ、ふらふらと議論が揺れる。
 
多様な基準を認め、そこでの拠り所としての方向性を見据える。ある意味、「少数者しか許容できないたったひとつの正解」を求めるのではなく「より多くが許容できるセカンドベター」を探していく。
自分の中にない価値基準が、相手にあることをまず見据えないと。