情報が物欲を

街を歩いていると、おいしそうな匂いがしてきたりする。

派手な看板が、見栄えのする広告が、物欲を刺激する。

 

生理的欲求によるもの以外の欲求は、基本的に外部情報が欲望を想起する。気持ちよさそうでしょ?かっこよくなれそうでしょ?便利に見えるでしょ?

それを「手にする」ことにより、手にしていなかった時にはなかった「価値」が手に“できそう”に思わせる。そういう欲望を想起させるような情報をつくることが広告。そういう事ができるようになるかも、そういう状態になれるかもとあり得る可能性を想像させやすくする(時に勘違いとも呼ぶ)のが広告。

 

今や、「モノ」があふれている時代。少なくともこの国では、(将来は別にして)かなり潤沢にモノが出回っている時代。情報を作らなければ、次の欲が想起されなくなった時代。

でも、企業が作る情報のあざとさは、すでに多くの人が分かってしまい。だから、「そうではない情報」を求めて人々は動きだし。

 

そんな中で広がってきたBlogやSNS。人々のつながり、井戸端会議的な「情報」を、安価に時空を超えて展開できるテクノロジーの発展で、今までになかった物欲を想起したり。

だから企業は、そんな空間にも進出。

 

そうしてテクノロジーが安価になったことによって、今までは「情報の受け手」でしかなかった者たちも、「情報の送り手」になっていることを認識できていることは、どれだけ認識されているのかなぁ。手に持っている持ち駒は、使うかどうか以前に、知っていないと使えないし。分かっていた上で初めて、で、どう使おう?となれるもの。情報を操作されているだけでは操られるのみ。操作する側になれとは言わないが、せめて認識しておかないと。