共有化、共通化、思い込み

仕事を進めるにしても、遊ぶにしても、それに関する情報、状況を共有化することがとても重要なことはご存じの通りで。

裏返せば、こういうことが喧しく言い続けられている事自体、それがいかにうまくできていないかの証でもあるだろう。

 

情報を共有化する。言葉としては簡単だ。今持っている情報を「共有」すればいい。が、さてどうやって「共有」するのか?改まって問い直されると、すぐ出てこなかったり。

「いや、こうこう、こうやって共有化すればいいんだよ。簡単簡単」

などと言う人もいるが、さて、「本当にそのやり方で」すべてをうまく共有できるだろうか?勘違い、齟齬、理解の擦れ違いは絶対に生まれないのか?

そうやって突っ込まれると、なかなか苦しい事がほとんど。

 

もちろん、そんな中でもいろいろ工夫をして、こうすればいい、こんなやり方がいいとやり方が考案され、伝授されていく。

たぶんそれでも絶対になくならない。共有化、共通化のちょっとしたズレは生まれえる。

 

そう、違いはありますよ、決してずれはゼロにはなりませんよ、と理解するところからしてスタートにしなければ、「はい、こうやって伝えたでしょ!どうしてわからないの!」と、【100%伝わる神話】に捕われる。

 

『あなたが相手に伝えたことは、「相手に伝わったこと」が「伝えたこと」であり、「伝えたこと」が「伝わったこと」ではないよ』というのは、よく言われること。

だからこそ常にずれる。常に漏れる。意図していなかった状態になりえる。

意図した状態になるであろう、というのは、思い込みであり、万が一うまく行ったところで、それはたまたまうまく伝わった部分だったに他ならない。

 

で、思うのだ。

どうしてそんなに伝えたいのか?差異をなくしたいのか?伝えるだけ、に意味はあるのか。

違いをなくして何がしたいの?違いがなければ、あなたはあなたである必要すらないのでは? :)