賛同意見

別に海外の生活が長かった経験など無いのだけれど、日本において「少ない」と思うのは、「賛同意見」ではないか。

 

悪いと感じるところは、これが自分たちに及んではまずいということで、積極的に反対意見を出す人はいる。

だが、いい意見だな、これはいいなという場合、「これはいい意見だ。積極的に賛同したい」と発言される数は非常に少なくないか?

よくあるのは、おぉなかなかいいな、よしよし…と「心の中で」納得し、特に口には出さない、という態度。結果として見えてくるのは、最後に多数決を取る際に少し垣間見える程度だろう。

これはもしかすると、認識がかなり共有されている社会であったからこそ、言わずにわかっている、わかってくれているという状況が多かったからこそ、わざわざ波風立てなくてもという活動パターンが染みついたことに起因するのかもしれない。

 

「良い」ということを積極的に引き出す意見が少なければ、論を打ち立てるための説明者以外の賛同者が見えないことになる。自ら積極的に意見を述べている者からすると、賛同者がいるのかいないのかが見えないほど、不安なことはない。結局「良いことを言える人」は、強靭な心と、孤独に耐えられるような気質を求められ、そこを超えて初めて実践に至る。

 

しかし実際にはそこまで心が強くなくても、良いアイデア、考え方を持っている人はたくさんいる。が、それを発表したり、賛同者を募るほどに強靭でないがために、出てこれない、発表しようとも思えない状況はないだろうか?

 

声を出さなければわからない、それは悪いことのみならず、良いことも。それを「表明する」という態度を身に着けられるようにするには、親なのか、学校なのか、地域なのか…。
正しく議論できなければ、正しい方向へ意見を収斂していけなければ、結局誰かの思惑の方向にのみ物事が動いていく。

 

そもそも正しく「議論する」ことができる大人が減っているのかもしれない…。