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コミュニケーションのI/O

I/O、Input/Outputを略した書き方の場合、I/Oと記することがある。
I/Oとは入出力の事。要は情報をもらうことと与えることだ。

 

もちろん、装置や役割によって、入力ばかりで出力がほとんどないといったこともあり得たり、またその逆もあったりするだろう。だが、こと「人」においては、ふつうそれは同等程度になるはずではないだろうか?というのが私の直感。

何を言っているかというと、「情報をほしいと思う人」は、「それにある程度見合った程度の情報を出さなければ、得ることはできないのではないか」ということ。

 

情報をほしければ、それをもらう「受け口」が必要になる。だがその「受け口」を用意するのも、情報の出してから言うとやみくもに出すわけにもいかず、ある程度「この口は誰の口なのか?」を認識したり、精査したりして提供しなければ、不必要な口に必要以上の情報を与えてしまうこと」にもなりかねない。それを避けるためにも、「その口が誰の口なのか」という受け手の情報を知っておく必要がある。

 

直感的にそれがわかっている人は、ある程度の情報が欲しければ自分の情報も出さざるを得ないだろうと素直に情報を出してくれる。ある意味ギブアンドテイクがなりたつ。
が、一部の方においては、「自分の情報はかたくなに出したくない!が、情報は欲しい!」という方がいらっしゃる。これがとても困るのだ。

 

出さないともらえないでしょ。出す方の立場を考えてくださいなと言っても、それはどんなことがあっても出しません!と。でも情報はくださいと。

そういう方の理論の一つは、「だって以前はそんな情報をわざわざ出さずにもらえたじゃないですか?」なのだが…本当にそうだろうか?

 

ネット以前の状態の時には、そうした情報が「相手に捕らえられていることすら自覚していないことが多かった」ということを認識できていなかったんじゃなかったんだろうか?当時はダダ漏れで出していた情報があった上での情報入手だったのが、出す側の意識、状況が見えやすくなったことで、自分は出したくない、が、相手の情報は欲しいということばかりが目につき始めた、テイクアンドテイクの状況に。

 

だから、もらえる人はもらえるのだ。が、それに匹敵するほどの何かを提供しているからこそもらえるのだ。情報のI/Oは、ある意味バランスで成り立っている。欲しければまず出せ、と。出なければもらえないのだ。都合のいいところだけもらおうとしたところで、それは誰か、どこかに余計な負担をかけていること。それが意識できずに、理解できずに、欲しいものは欲しいといわれても、提供できないんだからさぁ。