それは無駄ですか

電気自動車がガソリン自動車よりも台数が増えるであろう未来も、たぶん近い将来には来るんだろう。自動運転もきっとどんどんと進むそんな世界も夢ではなくなった。
そんな中でも、空中を飛んで移動しない限り、タイヤという回転体を使って移動する限り、まずなくならないものがある。

 

タイヤを回すためには、そこにつらなる車軸を、モーターであれ、エンジンであれ、何か原動力を使ってそれらを回す。当然、その軸は安定的に、摩擦を少なく回すために、軸の周りにはベアリングがセットされて軸受けが存在する。そこにはそれらが滑らかに回るための、潤滑油が存在している。もしもこれ(潤滑油)が切れると、軸は滑らかに回らず、タイヤはスムーズに回らなくなり、最悪、エンジンやモーターは焼け付き、当然ながら動けなくなる。そう、「動けなくなる」。

 

大したことがないはずの「潤滑油」は、たとえ少量ではあっても、切れてはならないもの、無くてはならないもの。

 

 

人が社会的関係性を維持しつつ生息するこの社会において、この「潤滑油」に相当するのは何だろう?おおきくくくれば「コミュニケーション」、より具体的には、誰かの話を聞いたり、情報を伝えあったり。もちろん、悩みを聞いたり、相談に乗ったりすることもその一部だ。

 

人はコンピューターじゃない。だから、一見その部分だけを取り出して聞いてみると、「雑談」に見えているものでも、そのやり取り/コミュニケーションを通じて、人となりを感じ、信頼のブロックを積み上げる。だから、コミュニケーションなしには成り立たない。

「必要最低限の情報」をやり取りすることが「コミュニケーション」ではなく、非言語化された、さまざまな情報にまみれた「それ」こそが、「コミュニケーション」。この「潤滑油としてのコミュニケーション」が切れたり、足りなければ、当然システムは焼き付いたり、うまく回らなくなることは当然起きうるだろう。

 

無駄話をするな、無駄口をたたくな、というのもわかるけれど、じゃあ何がそれにあたるのか当たらないのか…という「線引き」ができない以上、一律カットしようとすることは、それは「潤滑油を切れる状態にしよう」とすることではないですか?

その「やりとり」は、本当に無駄ですか?無駄に見えているところもあるけれど、「効用が評価出来ていない可能性」はないですか?

結局、「良い雰囲気の職場」といった、「潤滑油たっぷりで、滑らかに回る職場」には、それなりの「コミュニケーション」は必要なはずではないですかね?見えたモノだけ、表面的なモノだけ信じて、それに向けてのみ手を打って、失敗したことって…。