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認識と存在

認識していないのは、存在していないに等しい。

久々に自分自身で実感してしまった。

 

 

すでに音楽はもちろん、映像もストリーミング時代になっている。「雲」の向こうには曲や映像が何十万も用意され、それが日々増大し続けている現実。

人生80年、1年365日で1日10時間音楽や映像を見聞きし続けたとして、1年で3600時間、3年で約1万時間、30年で10万時間なので、人生、90年として約30万時間弱。1時間に1曲、休みなく別の曲や映像を聴き続けたとして、やっと今ある曲を聞き終えるほどの数が存在しているということ。今後1曲も増えないという前提で。…となると、当然知らない曲、知らずに終わる数の方が多い。

 

存在していることすら認識できない、知らないのは、「その人にとって」存在しないに等しい。知らなければ知ろうとする動機にもつながらない。だから「存在を知らしめる」のがまずはじめになる。

 

 

つい先日、自分の音楽ファイルの中においてそういうことが起こった。

iTunesが出始めたころからこつこつ構築してきた音楽ファイル群。ここ自分の音楽ファイルを探してみて、実は一度も聞いたことがないファイルがまだまだあるのに気が付いた。

それまでも、「面白いのはないかなぁ、面白いことはないかなぁ」と、『外』にそれらを探しに行っていた。とりあえずためられるものはためて置いて、で、それらを忘れて、より新しいもの、より刺激のあるものを求めがちに。

 

たぶん私だけじゃなくて、他にもそんな人がたぶんどこかに。自分のすでに持っているモノ、価値に気付かずに、新しいものを求めてさまよってみる。が、結果的に探して探して帰ってきた自分の足元に、それは転がっている、ということ。

べつにそれは事やモノに限らず、人や技術もそうだろう。自分の周りにあるものを「こう」使えばよりよくなるのに、より便利になるのに、それを知らずに自分たちの外側、周りに求めようとする。

 

新しいことに飛びつきたい衝動は分からなくもない。が、それは、我が身を振り返ってからでも遅くはないんじゃないか?だってすでに自分の身近にある、自分のものになっているものが、少なくないんだから。

認識できていなければ存在しない。まずは気づきませんか、自分自身を、自分の身の回りを。