「自分」が邪魔

同窓会。幹事がしっかりしているところは、結構数年に1度の割合で開催されたりするのかな。今の30代くらいまでは、すでにネットが発展したのちに卒業した口だから、それなりに連絡の取りようがある。これが40代くらいになるとかなり怪しくなり、50代は人集めから始まるので相当厳しい。60代ははっきりと連絡が取れる人と取れない人とが色分けされる。

 

こうした集まりに出てくるのは、ある意味「集まれる人」なのかな。日々の暮らしすら危うい人は、当然行きたくても行けないのが現実。それ以外にも、「当時」は結構スポーツができると言われていた人が太ってしまっていたりして見せたくなかったり、勉強ができると思われていた人が、それほど見栄えのしないありきたりな職についてしまったりした人なんてのも、たぶん来ない人が多めなのでは。そう、プライドが許さなくなるのだ。

…が、この「プライド」は、「自分が思うプライド」であって、周りから見てどうのこうのというモノとは少し違う。「自分が当時、周りにどう思われていて、そののちどう想像されていたであろう「みんなが思っているであろう自分」と、「今の自分」とのギャップ」のズレが少なくなければ、たぶん来ない。

めんどくさいなぁ。

 

そんなこと言わずに、「今の自分」として会えばいいだけなのに。そこまでして「ごく少数の人間が自分に思い描くイメージ」を「そう思い続けてもらう」事以上に、たぶん「再度出あって、新たな展開に結び付く事」の方がどれほど刺激的で、次の世界が開ける可能性があるか。それこそが「過去」に縛られていて、結果現実に向き合っていない事じゃないかな、と。

 

今年は会おう、過去のみんなが「今」どうなっているかと。

そして今年も出会おうよ、新しい誰かに。

今から作る未来のために。