理解と行動

普通、人はそれぞれ、そうするとどうなるのか?ということを多少ながらも想像して行動を行う。それが分からないときの行動は、ゆっくりになったり、躊躇しがちになったりすることが普通。それが「慎重になる」とか「臆病になる」という見た目の行動名称につながっていたりする。

 

だが、そもそも「その行動の意味」が分かっていない場合もある。慣れない新人が「先輩の言うとおりにやってみた」というのがまさにこれ。もちろんその先輩の教え方如何に依るのだけれど。うまく教えた先輩ならば、その行動の中でも「勘所」はきちんと伝え、「これをするとこうなる可能性があるから、これはやっちゃダメ。これはここにダメージが出るからこれもやっちゃダメ」とポイントを伝えていたりする。でも、「手順」しか教えずに「意味」を教えない先輩がいたりすると、見た目の形しか伝わらない。なので行動としてしか伝わらず、実はその時の小さな注意点、意味が理解されずに、場合によっては大変な事態を巻き起こすことにつながりかねない。

 

でも昨今はというと、「行動する事」ばかりが優先されたり、重視されたりして、「理解する事」がないがしろにされている気がして仕方がない。理解のない行動が無事に終了することももちろんあるのだが、その理解がない故に起こった問題はどうするのだろうか?行動したものの責任「だけ」でよいのか?

そもそも昨今は、「行動する者」が、理解する時間すら与えられず、考える時間や勉強の時間を与えられず、どんどんと「形」だけになって、自発性や意味をはき違える例をあちこちで目にすることが。

最悪の場合、そうして「行動したもの」がそのすべての責務を負い、問題を社会に垂れ流している事実はないのか?

 

効率化は、局所的に効率化されたとしても、全体的に最適化されていない場合には、結果的に全体の効率が下がったり、作業の押し付け合いになる事がほとんど。それがやり遂げたいことですか?僕らの未来の姿ですか?

 

作業を習う受け手も、作業を教える送り手の側も、ともにそこの意味はかみしめる必要がある。形だけ伝えても、意味が伝わらなくては、結果的に無駄を生み出しているに等しい。

理解して、行動しよう。何が分かっていないかを理解しよう。そしてその行動を是正しようよ。