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捨てる は 決断、持つは

「既得権」という言葉がある。文字通り「既に得ている権利」のこと。すでに持っているモノは失いたくないし手放したくない人が多い。たとえそれが形のない権利であろうと形のあるモノであろうと、ここで手放してしまうことで、もしかするともう二度と手に入らないかもしれないからだ。これを手にするのにどれだけ苦労したことか…なんて言う苦労話が価値の源泉になっていたりする。であるがゆえに「既得権」を差し出す立場の人、奪われる立場の人は大きな抵抗になる。

 

既得権は、まだこれが「権利」だから、いくら持っていても場所がいっぱいになる…ということはない。だが「既得」というのは権利のみならず、すでに持っているすべてのモノにおいて成り立ちうる。

さらに言えば、「権利」は基本的に何らかの「責務」を伴っている。だから持っているという事は、何かを果たさねばならない事もいっしょに背負っているという事。これはこれで本来は大変重たいモノであるはずなのだ。が、「それ」を持ち続けたいという人の多くの場合においては、その責務の重さと権利の重さとのバランスが取れていない(責務が小さすぎる)ことが多いんだろうと想像したりする。

 

それが権利ではなく物の場合、よほどのスペースがない限り、は無限に持ち続けられない。権利も、誰かに譲れるものもあるけれど、「あなただから」持てているモノもある。それは「誰か別の人」では意味がない場合は、すなわち譲渡できないということだ。
たまに、家族の誰かが亡くなって、故人が趣味で集めていたものが二束三文でフリーマーケットや古本屋などに放出されてびっくりしたりすることがある、というのがまさにこの一例。価値のわからない家人にとっては、どんなものであっても、場所を占有するモノにしか見えていない。

 

 こうした「既得のモノ」があふれているというのが現在。いや、消費活動を活発化させようとするなら、何らかのモノを売り買いすることによって経済が回りだすのだから、ある意味当たり前の状況ともいえる。

ただ、そうしてできた「モノ」が、これからも継続して意味を持ち続けるかは別の話だ(逆に言えば、今は価値がないものでも、今後価値が生まれてくるものも当然出てくるのだが)。

 

既得「物」としてのモノは特に、「思い出」という価値が乗っかっている部分もなくはない。が、「昔はそうだったが、今の時代にそれは希少価値も何もない」という物も少なくない。だが先にも書いたように、「今の価値」を冷静に判断しているかというと(そういう人もいるのだろうけれど)、それを「手に入れるための苦労」を価値としてあがめている人が結構いるのかも、という事。

あなたがそれに託している/持ち続けている意味は、それを「手にするための苦労」に対しての価値なのか?それとも今現在の「それ自身」の世間的に評価された価値なのか?

 

もっと言えば、そうしたことを考える事すら放棄していたりしないだろうか?価値を考えることが大変だから、考えない。でも万が一価値があるとまずいので手元においてはいるがほったらかしている、なので現実には見てくれとしてのモノが、ゴミ山のようにたまっていないだろうか?

 

断捨離が相変わらず流行している。ごく少数のモノしか持たない人たちも出始めている。モノをたくさん持ちすぎて、事実上価値のないモノ、ゴミがたまっている人は、捨てるための「判断をする」のが大変だという人。それはそこまで判断することに疲れてきた/放棄してきた人なのではないだろうか?考えるという事、決めるという事にはエネルギーが要る。何かを振り払う、もしくはこれからも背負い続けるという「覚悟」なのだらか。

 

昔のようにモノを簡単に捨てられる環境でもなくなった。分別し、場合によっては捨てるための作業にもお金がかかる現在。捨てるという事は決断でありお金がかかる事。

 

そう、「持つこと」が贅沢な事なのかもしれない。そして結構多くの人が、「持つ」という贅沢である種の満足感を得ているところがあるのかもしれない。