「同じ」の価値は

先日も書いたけれど、みんなと「同じ」というのは価値がさほど高くない。誰かと同じことができても高い価値は認められない。あなたができなくなったら誰かと交換可能だという事、凡庸な価値だということに。

 

ただし、それも「視点」しだい。

たとえば、皆さんの多くは会社で効率をあげろと突き上げを食らっている事だろう。効率を上げるには、似たような作業は同じタイミングで一斉に処理できれば効率があげられる。そう、「同じ」にすることで効率を上げることができる。これはそれを裁く方、作業する方にすれば、「同じである事」は大きな価値になる。だからこそ、バリエーションをもたせて対応するより、いつでもどんな時でも、対応は同じ、にする事はありえる。

 

しかし「裁かれる方」「対応される方」からすると、十把一絡げに扱われるのはいい気はしない。それぞれに応じたそれぞれに適した対応にこそ「受ける方は」価値を感じるもの。

 

だから「同じ」と言えども、それを「する方」なのか「される方」なのかで、価値観は全く逆転するということ。これすらごちゃまぜにしてしまっては意味がない。

 

自分が「する方」になる場合には、「同じ」にそろえて効率化を。しかし「される方」になるのなら、皆と同じ行動をしないようにしたり、同じ時間、同じ場所を選択しないようにする事。

 

ほら、毎日の昼食、12時から30分ずらすだけでも、お店の混みが違うのでは?