欲を消費する力が

モノを欲しいという欲

知識を知りたいという欲

それを体験したいという欲

それを見たいという欲

 

これらが経済を動かし、人をそこに引き寄せ、お金を落とし、経済を回す原動力になっている。だから今までにはない刺激、今までにはない味、今までにはない楽しみ等々、さまざまな事を画策し、集め、引き寄せる。サービスとしてシステム化しなけらば体験できないものもあれば、自然として、そこに行かなければならないものもある。それぞれがそれぞれの立場において、引き寄せる、見たい、したい、食べたい、体験したいを生み出しつづけ、発信し続ける。

 

だが、すでに満足し始めている人が出てきている。決して全員ではないのだが、今のままで満足と言う人がかなりの数を締め始めている。これをどのように思うのかは、たぶん今後の詳細な分析があるのだろうと思うけれど。ただ私はこう思う。「満足、というほどに、他の事に興味を持ったり、他の活動をしたりする時間やエネルギーが、個々にはもう残っていないのではないか?」と。

 

一部の特別な人々を除けば、それ以外の全員が、消費者サイドであると同時に、働き手、モノやサービスを提供する側でもある。そしてその働く側においてここ10年15年の傾向はと言うと、「効率化」がかまびすしい。

もちろん、非常に非効率に回っている事務所や役所などはまだまだいろいろと散見することはある。その一方で、民間企業の多くにおいては、効率化の下で、非常に厳しい労働環境が生み出されている。手間や作業の手順を見直すことによる「効率化」も図られているのだろうけれど、究極のところは、働く時間を伸ばした(残業した)けれどまともにその賃金が払われない事による「効率化」と称する結果が生まれた部分が多かったのではないだろうか?事実その結果として、ブラック企業やブラックバイトといった言葉が横行しているではないか。

 

そうして出来上がったものは、より良いサービス、商品が、より安く…と言うところがほとんどなのだけれど、と同時に、それらサービスや商品を使う、消費するはずの「消費サイド」を疲弊させ、新たなサービスに行くくらいなら疲れを取りたい、豪華な食事よりも、質素でも楽にできる食事…といった方向に推し進めていただけではないのだろうか?と。

 

作る側、提供する側の論理だけで考えている、実行しているだけでは、あたりまえだが消費など拡大するわけもなく、結果として景気の停滞、場合によっては低下を引き起こす。儲けるために使っている資本(たる人々)は、同時にお金を支払ってくれる側でもあるはずが、そこを痛めてしまっては、作ったはいいけれどだれも使わない、使えない、使う気になっていないという事なのではないだろうか?

 

あまり印象のいい言葉ではないけれど、生かさず殺さずで、欲を消費する程度の力を現場に残しておかなければ消費など拡大したりはしない。

労働資本を、消費資本(お金を使ってくれる側)といった両局面で見た分析とか、理論とか、無いものなのかね。まぁほぼ直感的に、均衡するところで回しなさいという結果しか出ようがないのだけれど。