贅沢へのあこがれ

皆さんは贅沢したいと思ったことがあるだろうか?どんなものでも、事象でも構わない。これをもっと欲しいとか、もっとやっていたいとか…。普通、あるよね。

 

しかし他方で、他の人から見れば贅沢でも、ある人にはもう当たり前にできている人もいるかもしれない。その人にとって見れば、その事自体は贅沢でも何でもないかもしれない。

そう考えれば、「贅沢したい」とは相対事象でしかなく、何かと比較して、それは例えば「今」や「過去」と比較したり、「誰か」と比較したりするということで初めて認識できるもの。要するに、今より良くなりたい、あいつより良くなりたい、あいつに追いつきたいという希望、欲望の結果、それが「今できていない事」として「贅沢」につながる道筋が出来上がる。

 

ただ、後先さえ考えなければ、刹那的贅沢ができる人はいる。それでもなぜそうした選択を取らない人が大半なのかと言えば、その後に続かないからだし、そこで得られる喜びが一時的で、場合によっては案外思ったよりも小さいかもしれないというリスクとして天秤にかけた結果だからかもしれない。よって結果的に、この場だけの贅沢というのは、日々の節約の反動でしか無い状況。

 

ではそんな刹那的ではなく、それがこれから続いていくためには?

たぶん、「誰かだけ」ではなく、周りを含めて、全体として、そういう事が実現できる環境、実現していく機運を醸成し、みんながそこに向かっていかなければ成しえない気がしている。一人の贅沢は一瞬であっても、全体で進化すれば、それはそう言う環境に。

 

それを考えながら、今、自分の周りを見回してみると、昨今の多くの状況で「もうこれでいい」という声が聞こえ始めている気がしている。それはたぶん、日々の日常をまわすことだけでも疲れ、これ以上「努力」して、何かがさらにうまく行く、満たされる?なら、疲労と比較して、このままでもいいのではないか?と諦めてしまっていないか?そんな人が増えていないだろうかという事。

 

逆説的になるかもしれないが、「頑張りすぎ」ている今だから、「効率化されすぎた」今だからこそ、これでいいと思っていないだろうか?少し余裕をもって、もう少しこうしたい、改善できるのにやってみたいな…と思う心を持つ余裕や、実際そのように現場として進む方向を目指すことはできないだろうか?
今は、「もっとやれるように、効率化するように」と、「やらされている」事だけでフルに回っていて、他の全てのやる気を失っている気がしている。まるで小学生のように「勉強しなさい!」→「今からしようと思ってたのにぃ、やるきなくしたぁ」に近い状況ではないだろうか?

 

贅沢にあこがれるだけの、欲望が出てくるだけの余剰を与えなければ、本質的景気回復など見込めないように、少なくとも私の周りでは見えるのだけれど。