野球で考えてみる

確かどこか東南アジアの国では、「おぼれている犬は棒で叩く」といった諺があるのだとか。この言説の真実はさておき、今のネット、SNS界隈の状況が、まさにこんなことになっていないだろうか?

 

「炎上」という言葉が普通に使われ、一般的に意味が通るようになり始めている昨今。ちょっとした言い間違い、言い過ぎがネット上で発覚すると、一気に皆から「言葉の集中砲火」を浴びる的になる。これは大変つらい。だからこそ、ある人は「だからネットで発言するのは怖い。嫌だ」と、一言も発さなかったり。逆に言葉を発するにも「匿名しかやらない」となったり。

 

こういったことばかりではないのかもしれないが、極端な話、たった一言だったり、一つの言い間違いで、いきなり血祭りにあげられる…という危険性が実際にあるという事。これは大変恐ろしい。

 

野球でたとえてみれば、いわば「ワンストライク」で「ワンアウト」になるに等しく、「ワンアウト」で「攻守交替」になるに等しい。こうなると打席に立ったとしても、バットなど決して振れなくなるだろう。イチかバチかしかないという事。明らかに「ピッチャー有利」だ。

これでゲームが成立するか?正しく競争や戦いが成立できるだろうか?

皆が恐れ、チャンスは偶然あるか、一生を棒に振るかしかなければ、ほぼ誰も挑戦しないし、発展や改善は、事実上なくなる。力と暴力に支配された空間は、たぶんむなしく、危険で、より良くなる要素はほとんどないだろう。

そういう意味では、ネット空間という社会が、事実上のルール無用であるということ。だが、たとえば著作権の話をはじめとしてだんだんとルールが整備されてきたように、現実の社会同様、ネットのうえの社会においても「ルール」が整備され、適応されてこそ、適切に発展し、便利になり、使いやすい空間となるのは当然のこと。

 

現実はというと、単なる一言で「炎上」が起きる場合もあるのだろうけれど 、そこまでの言動にもおかしなところがあるからこそ、そこで大きく燃え上がるきっかけになるということだろう。だがやはり「ワンアウト主義」ではなく、せめて「スリーアウト」「スリーストライク」まで大目に見てもらえるようなルールが欲しい。

 

その意味では、ネット社会など、それまでの中世から近代、現代にかけて作られてきた何百年の歴史から見れば、まだたかだか二十年程度で入口についたばかり。ここからルールが制定され、皆の意識が変わりだすということ。

 

2218年頃から見る現代(2018年)は、2018年から見る1818年に匹敵するのだから、ナポレオンの時代。ネットの歴史が刻まれるには、まだ時間は刻み始めたばかりだということ。

そして…ここまではネットとして書いてきてはみたけれど、実際、一度でもアウトになったら復活の道は事実上閉ざされている…という世界は?身近にありませんか?それでチャレンジしようと思いますかねぇ?