価値が上がる、下がる

先日、知人との間で話をしていて気が付いたのだが、もう当たり前のようにCDを購入し、それをパソコンに取り込んで、音楽を聴く…という習慣は事実上なくなっているという事に。聞きたい曲を都度、その欲しいタイミングで購入するか?月額いくらで聞き放題に加入して聞く。すでにCDのドライブがなくなっているパソコンも当たり前に出始めていることからも想像に難くない。

 

音楽の月額課金というやりかた、これは音楽に限らず映像もだけれど、これだけ通信環境が、それなりに太く、安定してきたからこそ実現可能になったのが現在。そうしたインフラが整備されたことによって、いつでも見られる、いつでも聴けるという環境を作り出して「利便性という価値を上げる市場作り」がなされてきた。多くの人々が享受し始めている。

 

だが、上記の知人との話の続きの中で、こんな話題にもなった。

そうして、いつでもどこでも欲しい時が見たいときであり、聴きたいとき…となったことによって、映画のよう長い時間を要するモノはともかくも、3分から5分の音楽や曲の「ありがたみ」は下がっていないだろうか?昔なら、CD1枚、さらにさかのぼればレコード1枚を、擦り切れるまで「何度も聞く」ような形で、それぞれの曲のありがたみを味わっていた時代。

だけれどたぶん今は違う。聴きたいときにチラッと聴ければ、ハイそれで満足、に近くないですか。聞き流されるような、本当に「秒」で消費されるようなコンテンツの価値観に成り下がっていないだろうか?いつでも便利に、であることが、一つ一つの価値を下げることに。

 

そうして、そんな環境の中でも、たぶん長く味わいのあるモノ、実力あるモノが選別され残り続けていく、という状況もある。それでいいのだ、という考え方。

ただし、コンテンツクリエーション業界のお金の分配方法が、それにはすぐに対応できていないんじゃないかな。と言うか、かつての、一つのコンテンツ価値が高かった時期の配分の仕方のままになっていて、不公平が生まれていないだろうか?安易に稼げている人。この人は既得権を主張するだろう。けれど努力して、本来的、時代的価値に寄り添っているのに、適切な対価が支払われていない人は?

 

それは音楽業界、映像業界だけでなく。作り方、見返りの配分方法、その両方にギャップがあり続ける限り、不均衡が生まれ、真の価値が正しく社会において均一化されるまでの長い時間が経ないうちは、成長にゆがみが出るのではないのだろうか?

時が解決する…のを待つしかないのか。時代の流れ、でひとくくりにしてしまっていいのか。