無駄の再生産を辞めたい

マンションに住むと、大抵マンション理事の役割が何年かに一度ずつ、順送りで回ってくる。マンションに限らず、戸建てを手に入れて住み始めても、その地域の自治会への参加が求められる。

そうした自治会や理事会の意味はもちろんわかる。町内、地域内ルールを取りまとめ、運営していくことの意義は十分に認める。

だがそれとは別の視点から見ると、昨今の都会では独身世帯が増えている一面がある。給料が高い人もいるのかもしれないが、安い人もいる。変則的に、土日は夜遅くまで働く人だっている。結婚していたところで、昔のように、夫はサラリーマン、妻は専業主婦…の世帯は、相当恵まれた環境の人にしかありえないのではないだろうか。

 

そんな独身者に、共働きのご家庭に、「おたくが次の理事の順番ですから」と、役割が回ってきたら?

もちろん、参加できるなら参加すべきだ。めんどくさいは問題外だろう。が、それを乗り越えたとして、仕事都合でどうしても毎月月末土日の集まりはちょっと無理、となっている人だってたくさんいるのではないだろうか。

 

 

これは地域の活動のみならず、PTAも同じはず。

例えば今から30年前、まだ専業主婦といった家庭のあり方が当たり前だと思われ、その現実に合わせた現実的運用もそこそこされていた時期なら、一人(主に夫)は仕事に、もう一人(主に妻)は地域の活動に、もあり得ただろう。

しかし今はと言うと、そもそも企業が、個人の効率の極限を利用し尽くそうとしている状況。そんな中で、地域の活動だからと全ての企業において、ある時期、理事が回ってきた人だけに向けて、甘く見てくれる…とはとても思えない。

ただ、地域活動の視点からすると、「去年もそうでした。だから今年もそうさせてくださいね。」などと昨年度踏襲がほとんど。突然ルールを変えるわけにもいかず、例年通りの運用をしようと押し付けがちになる。だが、ルールだからと現実を認識する事なく、とにかく地域活動に力を貸せと言うのは、それは極端にはその人の、その一家の人生設計を狂わせかねないのではないか?とつくづく思うのだが。

 

であるからこそ、自主活動も精査する必要があるはず。去年もやったから今年も同じく…はあり得ない状況だろう。無駄や、昨今はもう無理な活動は辞める決断をすることだ。効率のいい作業を意識すること。PTAがベルマーク集めに今現在、「苦労している後ろ姿を見せて」集める意義はどこにあるのか?

誰の何を満足させる活動なのだろうか?

 

めんどくさくてサボる人と、本当に無理でできない人をどう見分けるのかが大変だから、結局踏襲する。それこそが「無駄の再生産」でしょ。

そろそろ自主的活動、地域的活動の限界を感じている。

目的をはっきりしましょう。去年もやったから今年もはやめて、悪い慣習は「私の代で断ち切る!」という意識でないと、結果的に地域から、自主的活動からつぶれちゃいますよ。

 

探す前提

Yahoo!に始まり、今じゃGoogleを普通に使っている日常がある。人に聞く前にとりあえず検索しろという揶揄としての「ググレカス」なんて言う言葉までできつつある。

 

思い出すために探すことがある。あぁあれ、何て名前だっけ…。これを思い出したいときに、その周辺の言葉を入力して探し出す。あの辺にあった、あれと一緒に出ていた、あのころにあった、「アレ」。たいていの場合、なんとなくのビジュアルやイメージが頭の中にある「アレ」を探す。当然、あるものとして探す。

 

場合によっては、こんなものがもしかすると「あるかもしれない」と思って探すこともある。それはもちろん「ないかもしれない」。だがここでの探し方は、それこそ「ある前提」とは違い、さまざまにイマジネーションを膨らませて探すしかない。特に「あるはずだ」と思って探す場合には、さまざまなアプローチ、さまざまな関連性を想像して、こちらの視点から、あちらの視点から、これとは関係ありそうだ…という思いつく限りの視点を絡めて探す。

 

…というこの思考、行為自体が、実は結構「頭を使う」行為だという事。物事を多面的、いろんな視点を持って見ている、理解しているからこそ、そうしたキーワードを探せること。

さらに言えば、「言葉」を知っていないとキーワードを組めない。当たり前の言葉ではあまりにノイズが多く引っかかるからだ。できるだけ専門用語、これにぴったりと言う言葉を一言で言い表せるかどうかが、検索のヒット率を大きく左右する。

 

と考えると、「検索する事」自体がすでに才能だったりする。その時点でふるいにかけられている。

じゃぁそれをどこで学ぶのかって?その一つは経験だろう。それと… w

 

昨今の街のイベントから

「地域での会話」というのは、隣人との会話の他にも、商店との会話もとても大切な事。地域から「商店街」が失われることの意義は、実はここにもあるはず。旧来のすべての商店が、Webで情報を出しているわけもなく、生の情報は生の会話に限られているところはまだまだいくらでもあるのが現実。

 

そんな街の情報の一つとして、すでに「あちらの街」、今年の花火大会がもう終了したところがある、という話を聞いた。

まだ6月です!梅雨にも入ったか入ってないかの時期なのに!沖縄でもないのに、です!

 

どうやら事の要因は様々らしいのだが。

その(すでに花火大会を終えた)街は海辺の街で、都会からのデートコースなどでも名前が出てくるような街。であるがゆえに、例年、その街の花火大会は、「街の外からの人々」で激混みするらしい。うるさくもなり、渋滞にもなり、そこにお住いの方々にとっては、いっとき商売はできたとしても、デメリットの大きさがかなりあるらしい。昨今はちょっとした保育園を作るだけでも「うるさくなるので作らないでほしい」などと言う時代。それを勘案して、地元でひっそりと終えることにした、その結果が今年のこの日程らしいのだ。

 

…という事を耳にして思う。これからの政治的運営は、本当に難しくなるんだろうなと。そうしたイベントを、地元だけでひっそりやる…という事自体は、もしかすると「今年は」良いかもしれない。だが昨今の「人口減少」だ。ちょっと気を許すと、他のイベントにかき消され、忘れ去られていくのは必至。そんな、もしかしたら近い将来に、「やっぱり皆さんに来てもらいたい」と思うようなことにはならないのだろうか?と。

 

街はにぎわってもらいたい。でもうるさいのは勘弁を。ある意味でぜいたくな悩みだし、我儘と受け止める人も当然いるだろう。そんなこれからの街の在り方、寂れないように、でも穏やかな暮らしやすい街づくりをするために。行政だけに任してできるとは思えない。街の意見を街自身が主体となって作り出す、そんな動きがなければ、「いやだ」の不満ばかりが噴き出すけれど、だれも是正のためのアイデアも出さず、調整にも動かず、不満の吹き溜まりのような街にならないだろうか。

 

もしかすると地方の街ではもう何年も前から起きている事象かもしれない。が、いよいよそれが関東地方の近隣の通勤者が住まう街からも出て来るし、吹き荒れるのだろう。

20年後の未来はどうなっているのだろう…。

いや、20年後を、どうなっているように「したいか」だろうな。

 

何も起こらない日々

皆さんの街では、警察が大活躍しているだろうか?

日々パトカーが走り回り、警官が忙しそうに街の見回りをしているだろうか?

そんな街があったとすると、それは、犯罪があちこちで起きる可能性があり、さまざまな悪いこと、事件や事故が蔓延している街ではないだろうか?たぶん、そのような街には住みたくないな、と言う人がほとんどではないかと思う。

こう考えると、確かに警官は時には見かけるものの、何事もなく、平和な日々が送れるような国や街が運営されているというのは素晴らしいこと。警察が日々暇そうだからといって、警官の人数を減らそうとか、給料を下げようと考える人はあまりいないはずだろう。

 

昨今の会社は、ネット社会の中で仕事を運営している。なので、ちょっとした小さな会社であったとしても、パソコンが何台も動いていたり、場合によってはサーバーを構えていたりするところがあっても不思議ではない。そうしたシステムの保守運用をしている人を、SEと呼んだりする事がある。いわゆるサーバーやシステムの管理、保守、運営を担当している人だ。

大きな会社であれば、日々メンテナンス工数もかかるだろうし、将来に向けての施策を打つにも、関係者の調整など、日々面倒な仕事が待っているに違いない。だが、小さな会社においては?そこまで面倒ではないとしたとき、彼らの仕事はどう見えるのか?

一見、何もしていないように見える。なぜなら、何も問題が起こらないから。

でも上記の「警察」の例と同じく、SEが日々忙しくトラブル対応をしている会社というのは、システムがうまく動いていない会社。彼らが、日々のちょっとした気づき、先手、事前対応策を打ってくれているからこそ、実は大きなトラブルが起きず、日々平穏に過ごせているという事。彼らが「暇に見える」という事こそが、彼らが事前に対策を打ち、日々の環境を整えていてくれているという事。

しかしそうしたことを理解できない人は、「何も起こっていないのは、何も仕事をしていないから」という解釈をしがちに。だからと言って、成果が出ていないというのではなく、成果を出した結果こそが平和な日常だという事。

もちろん、どこかにはサボっているSEもいるのだろう。ただそうした場合は、いずれ彼自身、その会社そのものが、大変忙しくトラブル対応に見舞われるのは必然だろう。それをどう見極めるのか?

 

正しく物事を見極めるには、それなりの見識と知識が必要になる昨今。やっぱり、知識がないというのは、以前に比べてはるかに、致命的な時代に来ているのかも、ね。

 

 

できる事、好きな事、稼げる事…

みんなの悩みの多くがこれじゃないかな。

できる事は無くはない。

好きな事もある、もちろんできる。

しかし生きるため、稼ぐためにしなければいけない事は、好きではないかもしれない。十分にできないかもしれない。だが、やらなければならない事ではある。

 

この、できる事、好きな事、やらなければならない事とどう折り合いをつけていくか?

アプローチはさまざまだろう。

 

最初から、「やらなければならない事」にフォーカスして、好きではないが、生きていくためにはやらざるを得ないと諦める…のも一つの戦略。ただ、若ければ若いほど?抗いたく、自分の限界はここじゃないと信じたい。

 

「できる事」をアピールして、稼ぎ安い手段を生きていくための糧にしていく。多くはこれかもしれない。ただし、これとてすぐにげんかいがくる。そこでその限界の中だけで、一生成立することはまずあり得ない。

 

「好きな事」に突き進むのも一つの戦略だ。ただこれはかなりの賭けでもある。全く稼げない事もある。が、これが稼げることになるとあたりは大きい。そもそも「好きな事」だ。追求している分、他の人は追いつけない可能性がある。となると、「その道の大家」にもなりえる。これは何にかけるべきなのか?世間の潮流や運にかけるというより、「自分自身」にかける意識ではないか?

 

今から30年ほど前にできたらしい言葉「オタク」。これは言ってしまえば、その道の好きなことにのめりこんでいる人で、その同時代においてはあまり世間の評価を得られなかった人へ向けての蔑称。

しかし彼らはその道にまい進し続けた。多分ほとんどが損得勘定なしに。それが場合によって、時代に乗って、文化的ポジションを得たとたんに、大きく花咲く可能性も見えてきている。「オタク」が稼ぐ手段になりえている。

そもそも、コンピュータだって、(今でもそのきらいはあるが)オタク文化のはしくれ。が、そうしたネットワーク、アプリケーションに強いことこそ、社会を生き抜く力になりえているのが昨今。

「世間が自分に追いついた」なんて言い方をすることもあるけれど、要するにそのモノのポジションが、社会の変化によって認められた瞬間に価値観が激変する世界。それが好きで突き詰めていたからこそのポジション。

 

だからこそ、好きな事は、細々とでも続けておく方が良い。好きなことは手放さない事。別にそれで、今は食べていけないとしても。人間「生きていくため」に生きているのではないでしょう?やりたいこと、好きな事を温め続けましょうよ。

人生、思った以上に、リスク要因ととらえられるくらい、最近は長いのだから。やりたい事をやるために。目的をすり変えられないように。